小説

『もしわたしがいなくなったら』立原夏冬(『雨月物語』より「浅茅が宿」)

「桜、どうして出張中、一度も連絡をしてこなかったんだ。今日のメールにも返事がなかったじゃないか。」
 桜は少しうろたえた素振りで、申し訳なさそうに答えた。
「ごめんなさい。出かけていて…。」
 真一は語気を荒げた。
「出かけていたって、いったいどこに行っていたんだ!返事くらい、すぐ返せただろ!」
「病院にいて…、ううん。ごめんなさい。私が悪かったわ。」
 桜の声は震え、目元にはうっすら涙が浮いている。それを見て、真一はできるだけ優しい声で桜を諭した。
「いいかい、こんな時だから、連絡をしてくれないと何かあったかと不安になるだろう。顔を見せなさい、やっぱり今日は体調が悪そうじゃないか、顔色も悪いし。熱は測ったのか。」
「熱を測ったって意味ないわ。今からそんなことをしたって手遅れだもの。」
 そう言うと、桜は口元を抑え、しまったという表情を見せた。

「手遅れって、桜、何を言ってるんだ?」
 すると、みるみるうちに桜の目に涙が浮かび、頬に涙の粒がすぅと流れた。
「真一さん、信じられないかもしれないけど、私はもういないのよ。」
 そう言って、桜は真一の手を取った。その瞬間、真一はぞくりとした。真一に触れた桜の手は、生きている人の手とは思えないほど冷たかった。
「実は私はもう死んでいるの。あなたが出張に出てすぐ、体調が急に悪くなったの。たぶん、今流行っている新種の感染症だわ。何とか救急車は呼べたけど、私は病院に搬送されて、何日も苦しんで、今朝死んでしまったの。」
 真一は目の前の光景が歪んだような心地がした。頭がくらくらして考えがまとまらない。
「あなたも気づいているでしょう。今日帰ってきて、何か変だと思わなかった?」
 たしかに、家の雰囲気も桜の態度も変だった。では、今、目の前にいる桜はいったい。桜は悲しげな表情で真一を見つめた。
「あなたが混乱するのはわかるわ。ねえ、真一、あなたとの生活は楽しかったわ。今まで、どうもありがとう。でもね、一つだけ、私には心残りがあるの。」
 まとまらない頭を抱えながら、真一は言葉を絞り出した。
「お前の、借金か。」
「そう、私が死んだら、私の借金だけがあなたに残されてしまう。この家で倒れて、急に苦しくなったとき、私、神様に願ったの。どうかあなたに迷惑をかけたくないって。そうしたらね、神様がチャンスをくれたのよ。」
桜はどこからか一枚の紙を取り出してきて、真一の前に置いた。
「離婚届よ、私の借金をあなたに残さないために、どうか、これにサインをして。」
「でも、お前はもう亡くなっているんじゃ…。」
 桜は穏やかな笑みを浮かべ、静かに顔を横に振った。

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