小説

『スワンボート』吉岡幸一(『ハムレット』)

 父は柔らかな笑みを浮かべて僕に言いました。ボートは僕のすぐ前にとめてたので、大きく脚をひろげれば乗り込めそうでした。
 垂れている柳の枝をくぐって僕はスワンボートに乗り込みました。幻だったら池に落ちたでしょうが、落ちることもなく靴の底には固いボートの船底の感触が伝わってきました。
「幽霊になって出てきたんでしょう。このまま僕をあの世に連れていくつもりなの」
 黄泉国から父が現われて、僕を連れていくつもりなのだと思ったのです。
「ただ一緒にボートに乗りたかっただけだよ。あの世になんて連れていくわけないだろう」
 父はゆっくりとこぎ出しました。スワンボートなので手でオールを漕ぐのではなく、脚で自転車のように漕がなくてはなりません。隣に乗った僕の側にもサドルがついていたので僕も父を助けるように漕ぎました。
 誰もいない池の上をボートが滑っていきます。月明かりが池に写っているのを壊しながら漕いでいきます。静かだった水面も小さな波を起こしていきます。
 池のまん中辺りに来たとき、僕は思いきって尋ねました。
「叔父さんに母さんを奪われて悔しくないの。母さんだって母さんだけど」
「悔しいといえば悔しいかな。でもな、母さんを奪ったのは俺も同じなんだよ」
 父はボートの先にあるスワンの頭を見つめながら言いました。
 父の語ったところによると、父も叔父も僕と同じ高校生だったときに母を好きになったということでした。父は叔父より一学年上で、叔父と母は同じ学年でした。ともに美術部に所属して毎日一緒に絵を描いていたそうです。父は叔父が母を好きなことを知っていたそうです。でも父も母が好きで、叔父が告白する前に母に告白をして付き合うようになったということでした。
「もし弟のほうが先に告白をしていたら、たぶん母さんは弟と付き合っていたんじゃないかな。そして結婚もしただろうな」
 父は寂しそうに言いました。
「だから奪い返されてもしかたがないって言うの」
「そうじゃない。辛いし、悲しいし、悔しい。生きていたなら奪い返されることなんてなかったって思っているよ」
「ハムレットのように僕に叔父さんを殺して欲しいと思っているの」
「まさか」父は笑いました。「生きていたらって話だ。もう俺は死んだんだよ。弟は、俺にぬけがけされたことに一度も文句を言わなかったし、母さんにはずっと自分の気持ちを隠していた。一途に想っていたんだろうな。結婚もしなかったしな。俺は死んだんだ。もう俺のことなんか気にしなくて幸せになってくれたらと思っているよ」
「僕も叔父さんが嫌いなわけじゃないよ」
「でも父さんって呼べないんだろう」

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