小説

『スワンボート』吉岡幸一(『ハムレット』)

「呼べない。だって父さんはひとりだから」
「弟もおまえの気持ちくらいわかっているさ。呼ぶように強制されたことはないだろう」
「ないけど……」
 僕は家出をした理由を父に話しました。話す前から父はわかっていたようでしたが、僕の話をさえぎることなく聞いてくれました。
「それでこれからどうするんだ。自分の居場所を探して街中をうろうろするのかい。それで自分の居場所がみつかるとでも想っているのかな」
「そんなのわからないよ。ただあそこはもう自分の居場所じゃないって気がしただけだから」
「叔父さんが父親になったことを受入れられないんだろう」
「そうだよ」
 僕は空に突き抜けそうな声で答えました。
「俺もだ。弟が母さんの夫になったことも、おまえの父親になったことも受入れられないよ。だけど化けて出たりはしないけどな」
「僕の前にはお化けになって出てきているじゃないか」
「本当だ。出てきてしまったな」
 父は腹を叩いて笑い出しました。僕も父につられるように笑いました。笑い声に押されるように岸辺の柳が揺れていました。池からはまっ赤な鯉が跳ねあがり水しぶきをたて、同時に夜空に流れ星が垂直に落ちていきました。遠くから声が聞こえてきました。僕の名前を呼んでいます。
 気づくと僕は岸辺のベンチに腰掛けていました。父の乗ったスワンボートは姿も形もありませんでした。水面も波をたてることもなくしずかに空を写していました。
 息を切らせた叔父が僕のうしろに立っていました。走り回って探していたのでしょうか。真冬にもかかわらず首筋からは汗が出てシャツを滲ませていました。
「父さんとスワンボートに乗っていたんだ」
 僕は信じられないとわかっていましたが言いました。ハムレットのように狂人のふりをしたわけではありませんが、狂ったと思われても構わなかったのです。
「兄さんと昔ここのスワンボートに乗ったことがあるんだろう。聞いたことがあるよ。楽しそうに話していたからな」
「母さんを奪い取った叔父さんを呪い殺してやるって言っていたよ」
 僕は心にもなく嘘を言ってしまいました。
「そうか。それじゃ、呪い殺されてあげないといけないな」
「悔しくないの。だってもともとは父さんがぬけがけして母さんを奪い取ったんだろう。叔父さんの気持ちを知っていたのに」
「僕だって兄さんの気持ちを知っていたから。兄さんが幸せになればいいと思っていたよ」
 叔父さんは僕の肩に手を置こうとして、触れないまま手を引っ込めました。
 僕は怒られないことに正直ほっとしていました。ただ怒って欲しいという不満も少しありました。
 僕も叔父さんも家出のことに触れることはありませんでした。僕はそのまま叔父さんの後をついていって家に帰りました。
 帰ると母が泣きそうな顔で迎えてくれました。逃げるように自分の部屋に入ると、机の上には握ったばかりのお握りが置いていました。僕は手にとってかじると、窓を開けて公園のある方を見ました。空からは今年最初の雪が降り始めていました。

1 2 3 4