小説

『娘の家』吉岡幸一(『リア王』)

「ばかね。お迎えになんていかないわよ。うじうじして情けないから叱りに出てきたんだよ。過去のことをいつまで悔やんでいるんだね。悔やんだって何もかわりはしないんだよ。逆に、その暗いうじうじした気持ちが本当は明るいはずの未来を真っ暗にしてしまっているんだよ。そのくらいのこともわからないのかね」
「だって俺のせいで、家を失って……」
「家ならあるでしょう。今は優子の家で暮らしているんだから、そこがあなたの家なのよ。きちんと自分の家になるように思い出をたくさん作ってちょうだい。不平不満ばかり言っていたらずっと自分の家は失ったままですよ」
 妻はほほ笑みながら言いました。幽霊でも暑いのでしょうか、うっすらと汗をかいているようでした。
「幽霊がいても一向に涼しくならないな」
「ほんとに、今年の夏は幽霊泣かせだこと」
 剛志と妻は同時に笑いました。こんなに笑ったのはいつぶりでしょうか。暑さで倒れそうになっていた体にも力がみなぎってきます。伸びきった草が風で揺れています。蝉の鳴き声が聞こえてきます。右隣の家の奥さんがまだ明るい時間だというのに洗濯物を取り込んでいます。郷田の後ろをバイクが走り抜けていきます。
 夢か幻か、本当に幽霊か、そんなことはどちらでもかまいません。ただ妻に会えた、会えたと感じられたことが嬉しかったのです。郷田は空き地から妻の姿が消えてからもずっとその場所を見続けていました。気がつけば太陽は西の空に沈もうとしていました。
「お父さん、やっぱりここに来ていたんだ」
 優子が小学校から帰ってきた裕介の手をひきながらやって来ました。その後から次女の恵美と三女の妙子もついて来ています。
「なんだ大勢で。恵美と妙子までいるなんて、俺はまだ死なんぞ」
 妻が危篤状態だったとき、枕元に家族全員が集まってきたときのことを思い出して、剛志は言いました。
「縁起でもないことを言わないの。お父さんが死ななくたって、集まるときは集まるものなのよ、家族なんだから」
「お父さん、元気そうじゃない。優子姉さんの家が嫌になったら、いつでもうちに来て良いからね」
 次女の恵美が太った体をゆすりながら言いました。
「外国に行くのいいものよ。遠くで暮らしたくなったら、いつでもうちにお出でよ。英語だって覚えられるわよ」
 三女の妙子が眼鏡をつまんで位置を直しながら言いました。
「お爺ちゃん、帰ったらゲームしようよ。将棋のゲームお母さんが買ってくれたんだ」
 孫の裕介が鼻を啜りながら言いました。
「シェイクスピアのリア王みたいに娘たちの家を順番に泊まっていくのもいいかもしれないな」
 剛志が何気なく言うと、優子は首をふりました。
「リア王は悲劇でしょう。悲劇なってはだめでしょう」

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