小説

『泉の選択』香久山ゆみ(『金の斧』)

 けれど、いくら頑張って鉄の斧を振るったって、社会の中の小さな歯車が顧みられることはない。ただ懸命に働いて、いつの間にか身を磨り減らすのだ。
 平凡な私は、平凡な職に就いた。何の取り柄もない、地味な事務仕事を日々淡々とこなす。やりがいもないし、面白味もない。意見だって通らない。それでも生きていくために歯を食いしばって黙々と働く。そうして食いしばってばかりいるから、あちこち欠けて、30にして歯はぼろぼろだ。普段口を閉じた時、本来上下の歯は離れているのが普通らしい。私の上下の歯はもれなくくっついている。その時点で食いしばりだそうだが、さらに寝起きの朝ぼんやりした時には自分の歯なのに自分の意思で口を開けられないくらいに食いしばっていたりする。そんなにしてぼろぼろになるまで歯を食いしばって、一体私は何を手に入れようというのか。
 何も。
 欲しいのは、ただ未来だった。明るい未来。けど、私には何もない。
 かつて、大きな夢を見る男と付き合っていた。貧乏でも楽しかった、始めのうちは。けれど、いつまでも定職に就かずふわふわしている男を、私は手放した。そうして大手企業に勤める真面目一筋の男を手に入れた。
 あの時手放した鉄の斧は、いま素晴らしいものを次々と切り出しているようだ。メディアに取り上げられ、晴れ晴れしい笑顔を向ける写真を目にするたび、私は視線を逸らす。一方、私が正直者のふりをして姑息にも手に入れた金の斧。金の斧は手に入れたそれ以上のものにはならなかった。
 いえ、いつまでも斧のことをぐちぐち言う私が悪い。鉄でも金でも、私自身が振るわなければ、何にもならない。
 いつもつまらないことで延々と悩み続けてしまう。だから、食いしばりも治らない。
 数少ない友人(というのは見栄で、唯一の親友である)に相談すると、「私ならジルコニアの一番いい白い歯にする」と即答で一笑された。彼女は私と違い、丈夫な歯の持ち主だ。私が就職でこちらに出てきてから、遠方に住む彼女とは久しく会っていない。それでつい長話になってしまった。
 彼女は私の思い違いを正した。
「泉の精は、樵たちから何も奪ってはいない」のだと。
 欲深な樵は確かに一本も斧をもらえなかった。しかし、それはもとの状態に落ち着いただけだ。そもそも泉の精が現れなかった場合の状態なのだ。もっとも、欲を張って自ら鉄の斧を泉に放り込んだという意味ではマイナスかもしれないけれど。だが、それほど欲深い男なら、これを契機にいっそう奮起するだろう。
 そうして、正直者の樵。彼には金銀の斧だけでなく、鉄の斧も、3本とも与えられたのだと。慌ててネット検索すると確かにその通り、まったく私の勘違いだった。
 ならば。泉の精は、あえて正直者の樵に金銀の斧を与えたのだろうか。もっと輝かしい未来を夢見ていいのだと、伝えるために。
 そう言うと、親友は笑った。

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