小説

『泉の選択』香久山ゆみ(『金の斧』)

 あなたはどれを選択しますか? 銀のもの? それとも、もともと持っていたのと同じような、白いセラミック? もしくはさらにジルコニアにする?
 目の前に誘惑を呈示され、私は懊悩し唸る。次回までに考えてきます、と歯科をあとにした。
 奥歯を大きく治療した。削った歯をかぶせるに当り、保険適用の銀歯にするか、それとも保険適用外のセラミックやジルコニアの白い歯にするか。保険外のものだといずれも10万円前後の自費治療になるという。ジルコニアに至っては、薄給の私の1ヶ月相当の手取りの大半が飛んでしまう。もちろん白い歯がいい。断然いいに決まっている。しかし。
 まるで、目の前に金の斧と銀の斧を呈示された樵(きこり)の気分。樵が泉に落としたのは古い鉄の斧。しかし、泉の精は言う。
「あなたが落としたのはこの金の斧ですか? それとも銀の斧?」
 人生は選択の連続だ。
 鉄の斧を泉に落とした瞬間には、もう諦めていた。また新たに鉄の斧を手に入れなければならないと。なのに、なまじっか金の斧や銀の斧を選ばせてくれるものだから、悩んでしまうのだ。
 歯が丈夫でない私。これまでにすでに数本、前の方の歯をセラミックで詰めた。だが、せっかく5万円かけてセラミックにした歯が、ものの数年で歯根治療が必要となり無残にもガリガリ削られることになったりした。ならば、10万はたいてかぶせた奥歯も一体何年もつことやら。そんなこんなで毎回自費治療を選んでいては生活がもたないので、この歯より奥は保険適用というマイルールを作っていた。だが、いざ目の前に白い歯を呈示されると揺れてしまう。だって、いくつになっても心は乙女なのだ。
 いい齢して今更色気出したって仕方ないのに。
 私は鉄の斧だ。何の変哲もない鉄の斧。
 泉の精は、「私が落としたのは鉄の斧だ」と答えた樵に、正直者であるからと金の斧と銀の斧を授けた。ならば、「俺が落としたのは金の斧だ」と答えた男だって、自らの欲望に正直だといえるのではないか。愚直なまでに正直な男じゃないか。なのに、泉の精は男には金銀の斧どころか、鉄の斧さえ返してやらなかった。きっと、正直者の樵はイケメンで、欲深の男は泉の精の好みのタイプではなかったのだろう。人生なんてそんなものだ。
 第一、本当に「鉄の斧」と答えた樵が正直者で、心底鉄の斧を必要としていたならば、金の斧や銀の斧よりもむしろ彼には鉄の斧こそが必要だったかもしれないのに。親の形見だったかもしれない。そもそも、金の斧や銀の斧で木を切ることはできるのか。切れないだろう。自らの鉄の斧と引替えに、金の斧と銀の斧を得た樵は、ただ目先の財産を与えられただけで、本来ならば行く末まで樵として生きていくはずだった未来を奪われたのではないか。彼に必要なのは、あの古びた鉄の斧だったのに!
 結局、平凡な鉄の斧がこの世界では最も必要とされているのではないか。だから皆、鉄の斧を持つのだ。凡庸な鉄の斧を。

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