小説

『あなたはだんだんだんだんとてもすごくきれいになる』ノリ・ケンゾウ(『智恵子抄』)

 そのときチエちゃんに泣かされた男の子が、タツヒコだった。タツヒコは中学二年生の秋ごろから、チエちゃんと付き合っている。弱いけど、悪い奴じゃない、とチエちゃんは言う。タツヒコはチエちゃんと同じ高校は選ばずに、私も通うことになる大学受験に強い私立の高校を選んだ。「チエは、喧嘩は強いから力じゃ絶対負けないけど、俺もチエのこと守りたいからさ、チエがあんまり得意じゃない勉強とか、そういうのを頑張りたい」という決意を、タツヒコは高校の受験勉強を一緒にしているときに度々話した。受験勉強の末、タツヒコも私も志望していた私立高校の特進クラスに入った。
 同じ高校に通うことになったタツヒコと私は、高校に入ってからもときどき、今度は高校の図書館で大学受験の勉強をしていた。
「多恵子、ちょっと来て」
 と、声をかけられ振り向くと、こっちこっち、と手を振ってジェスチャーするタツヒコがいた。
「どうしてもここが分かんないんだよ」
 と言い教科書の一部分を指さすタツヒコ。そのページを見て、問題を読み、解き方を教える。私はいつもこんな風にタツヒコに数学を教えていた。数学が苦手なタツヒコに一度だけ、文系で受験すれば、と言ったけれど、だめだめ、俺は国公立しか行けないし、無理して私立なんて入っちゃったからさ、うちお金がないんだよ、とタツヒコは言った。お金が本当にないのか、タツヒコはうちの高校だと校則違反のアルバイトをしている。何のアルバイトをしているかは知らない。週に何回かタツヒコは、「今日バイトあるから、先帰るわ」と言って帰ってしまう。ただでさえ特進クラスの授業についていくのも必死なのに、その上アルバイトまでするのは相当な負担に思えた。
「ねえタツヒコ、辛くないの?」
「辛い? 何が?」
「勉強とか、バイトとか」
「辛くないよ、すげえ楽しい」
「嘘つかないでよ」
「嘘じゃないよ」
「絶対うそ」
「まあでも、嫌々やってるわけじゃないからな」
「そう」
「うん」
「チエちゃんはどう? 最近。元気?」
「ああ元気、元気も元気。ちょー元気よ」そう言って、タツヒコは、にっ、と右のほうの唇の端を開いた。笑った顔の中に黒い穴が見える。歯が抜けていた。
「あ、歯がない。またチエちゃん怒らしたの?」
「違うよ。チエに片思いしてるバカが嫉妬して俺んとこきてさ。ほんと困っちゃうよ。チエ、人気者だから」
「そっか。チエちゃん可愛いもんね」
 タツヒコの嘘だった。チエちゃんに喧嘩で負けた腹いせで、タツヒコが報復に合うということが何度もあった。
「でもタツヒコに仕返ししてもしょうがないのに。男らしくないね」
「な、そう思うよな。俺のことボコしても、チエに勝ったことにならねえのに」
「チエちゃんには? 言ってないの?」

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