小説

『ボクと小さな本屋さん』鈴木沙弥香【「20」にまつわる物語】

 もうずっと雨が降っていない。そろそろ降ってもいい頃だと思うんだけどな。
 ボクは椅子の上、寒さで丸めていた体を起こし、外を見ようと店の扉へと近づく。――と、突然扉が開いて、店の外から背広を濡らした小太りな中年男が駆け込んできた。
「急に降ってきやがった!」
 もう、びっくりしたな。内心では心拍数が上がっているけれど、ボクは何事も無かったかのように、静かに自分が居た場所に戻って、横目に男を見る。
 男はとても苦い顔をして、ハンドタオルで肩を払う様に拭いている。中肉中背、少し剥げた頭に曇っためがね。左手に指輪は無いからきっと独身。年齢は40代前半ってとこかな。帰宅途中だったのだろう。なんて災難な。会社帰りの疲れた体を、帰ってすぐにでも癒したいだろうに。
「あれ? 今日は雨予報なんて出てなかったのにねぇ」
 そう不思議そうに口を開いたのは、ボクの隣で“世界の絶景100選”という写真集を見ていた店主の香菜さん。40歳だというのに、髪の艶も肌の艶も若い人たちに劣らない。美魔女とはまさに香菜さんのことをいうのではないだろうか。でもまぁ香菜さんは魔女というより天使の方が合っている。女神でもいいかも、なんて。
 そしてここのお店は、香菜さんが15年前に始めた本屋『twentieth days』。店名の由来はよくわからないけど、前に香菜さんがとても意味のあることだと言っていた気がする。「20番目の日」って何だろうってその時は考えていたけれど、今ではもうそんな話題すら出なくなっていた。
「突然ってとこが腹立つんだよ。予告をしておけよ。降るかもしれませんよって」
 不機嫌そうな男の声に、香菜さんが微笑む。
「天気予報士さんが空からの予告に気づかなかったんでしょうね」
「なんのための予報士なんだ」
「予報士さんも人間ですから。……まだまだやみそうにないですね、どうぞごゆっくりしていってください」
 そう言って香菜さんは写真集に目を戻す。ボクもつられて香菜さんの目を追った。
 香菜さんが今開いているページには、ボリビアの“ウユニ塩湖”が大きく載っていた。ここは世界で最も平らな場所として有名な湖で、降った雨が流れることなく大地にとどまり、水の膜を張って空を湖面にそのまま映し出すという。その神秘的な様は「天空の鏡」と呼ばれている、らしい。
「日本もこんな風になればいいのにね」
 ボクが写真集を覗きこんでいることに気づいた香菜さんが、眉を下げながら40歳とは思えないほどの可愛らしい笑顔をボクに向けた。

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