小説

『滅びない布の話』入江巽(ゴーゴリ『外套』)

「どんな感じでしょ」木村さんが外から声掛け、いいとか悪いとかいう評価じゃなく、いやほんまありがとうございます、それだけ返事した。開けますよ、カーテン開かれた先には、笑顔の木村さんと山下のおじいさんがいて、おっええやないですか、シュッと決まりましたなあ、中塚さん細いし、背、高いからいつもええ感じになりますけど、これ、いままででいちばんええのんとちゃいます、まんざら客への愛想でもないようなフランクさ、褒めてくれ、なんだか何も言えなくて、俺、ただすごくニコニコした。ちょっと歩いてみはったらどうです、言われるがまま、靴はいて、店のなかをあるきはじめると、もっともっと幸福な感情、増していった。
 四十年以上前の布、それは硬くて強い布、今日まで生き残っていた布、今日スーツとしてはじめてかたちを与えられた布、パターン引かれ、切断され、縫い合わされて、そしていま俺が着ることで空気をどんどん含んでいき、なめらかで強い皮膚のように俺といっしょに存在している。一歩一歩すすむたび、特別な服を着ているという緊張した違和感、新しいなにかに守られていくような安堵、その両方が増していく。

 うっとりしたまま金はらい、このまま着ていきますわ、「中塚さんいつもそうですね」木村さん笑い、すこし照れたが着て来た服はかばんの中、そとへ出てアイフォン見ると、時刻はぴったり六時半、スリック・チックがはじまるのは七時から、一度、心斎橋の駅もどり、ふたたび八番出口の階段、タントンタンと降りていき、かばんをコインロッカーにおさめ、もう一回地上に出て、いまからクラブ・チェルシーまでゆったり行けばちょうどオープンするころにつくはず、いまならなんでもできるような、すごく野生のような気分覚えながら、歩きはじめた。アイフォンからではなく、そのときただ頭の中に鳴っているのは、スリック・チックでよくかかる、メッセンジャーズ・インコーポレーティッド「トゥエンティ・フォー・アワーズ・ア・デイ」で、今夜も躍動感のかたまりのようなこの曲かかるだろうか、フロアのこと思いながらすこし上の空で歩く。

 しばらくの間、頭のなかに鳴る音楽に気をとられながら、新しいスーツが春の夜のひとをおかしくさせるような風をふくむの感じながら歩いていた長堀通りで、だれかがはげしく俺にぶつかってきた。なんやねん、一言言って行き過ぎようとしたとき、不意に肩たたかれ、すごい勢いでむかってくる拳が俺の顔にめりこんで、倒れ込んでいく途中、風が吹き、なかにひとかけらの、桜の花びら、見えた。

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