小説

『そらの瑕』木江恭(『王子と乞食』)

 玄関に揃えられたスリッパを無視してフローリングに足を下ろす。予想に反して冷たくはなかった。床暖房が入っているのだ。
 エミが一歩踏み出すのを感知したセンサーが廊下に明かりを灯す。ぱっと浮かび上がった先、ガラスケースの中で白塗りの日本人形が身体をくねらせて沈黙している。試しに軽く蹴ってみたが、別に白目を剥いたり髪をざわざわと伸ばすということもなさそうだ。
 廊下をぺたぺたと進むと左側に、複雑な幾何学模様の刻まれた硝子窓の扉が現れる。そっと押し開けると、電気がこうこうと照らす広いリビングだった。らにが明かりを点けっぱなしにしたのだろう。
 エミは暖かい風が循環するリビングに足を踏み入れる。L字型のゆったりとしたソファ。毛足の長いふかふかの絨毯。スクリーンのように大きくてひらべったいテレビ。右側に広がるダイニング。十人くらいは座れそうな大きなテーブルの真ん中には薄桃色の花が生けられた広口の花瓶。壁際の飾り棚を賑わせているのはごちゃごちゃと並ぶ写真立て。
 エミは一番手前の写真立てを手に取った。中年だが精悍な顔立ちの男、同じく若くはないが若々しい雰囲気の女、二人に挟まれておっとりと微笑む可愛らしい少女と目が合った。
 大道寺らにが転校してきたのは一ヶ月前のことだった。中学二年の冬、人間関係が様々なあれやこれやを経てほぼ固定化された後の微妙な時期の転校生に、クラス中の視線と注目が釘づけになった。男子は恥じらいと好奇を漂わせ、女子は牽制と警戒を交えながら。 教師が黒板に転校生の名前を書くと、密やかな溜め息が教室に飛び交った。世代だからとはいえあんまりにもキラキラなネームの転校生は、長い黒髪を耳にかけながらはにかんだ様子で軽くお辞儀をした。そして、音を殺してざわめくクラスメイトたちを気にする素振りもなく話し始めた。
 初めまして、大道寺らにです。らには、ハワイの言葉でそらという意味です。私の両親は二人共ハワイが好きで、旅行中にハワイで出会いました。プロポーズも結婚式も全部ハワイでやったそうです。結婚記念日には毎年ハワイの別荘に行きます。初めて連れて行ってもらった時、空がとても綺麗で感動しました。だから私は自分の名前が大好きです。
 見栄も虚勢も感じさせない伸びやかで自然な語り口だった。その日の昼休み、切込隊長を務める女子たち数人がらにに群がって様々なことを聞き出した。らには朗らかに無邪気な様子で全ての質問に答えた。父親は有名な外資系企業の役員で母親は全国を飛び回る弁護士、週に三日は通いの家政婦が来て家事を済ませることなどが明らかになり、大道寺らには晴れてスクールカーストの最上位に列席することを許された。あからさまに探りを入れるような質問にさえにこにこと笑っていた本人は、そうして密かに行われていた審判の存在を知りもしなかったのだろうけれど。

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