小説

『そらの瑕』木江恭(『王子と乞食』)

「だって、初めてだったの。何かをこんな風に、叩くのは」
「らに」
「びっくりしちゃった。まだ手のひらがじんじんしてる。だけど初めてのわりにはちゃんと出来たんじゃないかと思うの。だってあの人、ひいひい泣きながらすぐに逃げていったもの――ああ、面白かった」
 いつの間にか、らには笑っている。
「らに」
「ふふ、らにはあんまり力はないし不器用だけど、でも途中でちゃんとわかったの、釘を打つ時と一緒。力じゃなくて、金槌の重さを利用して打ち付ければいいのね」
「らに、答えて」
 エミはらにの肩を掴む。らにの目は何処か遠くに向かっている。
「らに、知らなかった。ふふ、すごい、本当、すごいね」
「ねえ、らに、何が」
「ちから」
 らにはうっとりと呟く。
「圧倒的で、問答無用で、単純明快で。ねえエミちゃん、すごいね、力って。らに、知らなかったよ、こんなすごいものがあるなんて。らににもこんなすごいことが出来るなんて」
「らに」
「楽しいね、エミちゃん。楽しかった」
 らにはころころと声を上げて笑う。
 エミはらにの手からバットをむしり取り投げ捨てる。古い木材の刺でささくれてうっすら血の縮む柔らかい手のひらを握り締める。大丈夫、温かい、いつものらにの手だ、いつもの、無邪気で無神経で子どもっぽい――。
 そしてエミは気づく。らにのカーディガンのボタンがいくつかちぎれていることに、首のあたりに大きな指の形の痣があることに。
 エミの身体は凍りつく。取り返しの付かない悪夢。
 不意にらにの顔に金色の光が差す。カーテンの隙間から朝日が差し込んでいる。朝はらにの頬の産毛をきらきらと輝かせながら、布団から玄関まで点々と床を汚す黒い染みを浮かび上がらせる。
「ああ、朝」

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