小説

『そらの瑕』木江恭(『王子と乞食』)

 張り上げたつもりの声は囁きにすらならなかった。
 エミはふらつきながら靴を脱いで、もう立ち上がる力もなく、薄暗がりを四つん這いになって進む。ゴミの臭う台所、怪物が蹴飛ばして割った磨硝子の引き戸、毛羽立った畳の和室。
「エミちゃん?」
 綿の潰れたみすぼらしい布団の上に、らにはぺたりと座っていた。
「どうしたの?目が覚めちゃった?いつもはお寝坊さんなのに」
「らに!」
 エミは、まるでホラー映画の化け物みたいに無様な四足歩行で駆け寄って、らにを抱きしめた。らには温かった。痛がる様子も、怖がる様子もなかった。昨日と何一つ変わらない、いつものらに。
 よかった。夢だった。
「エミちゃん?」
「ごめん、らに、ごめんなさい」
 エミは鼻をすすって、いっそう強くらにを抱いた。声が隠しようもなく震えていた。戸惑った様子のらにが、こつんと小さな頭をエミの肩に預けた。
「エミちゃん?何かあったの?怖い夢見た?」
「違う、違うの、らに、わたし、らににひどいことを」
「ひどいこと?何もなかったよ。それに、謝らなくちゃいけないのは私の方なの」
 細心の注意を感じさせる優しい手つきで、らにはエミの肩をそうっと押して身体を離す。
「らに?」
「ごめんなさい、エミちゃん。壊してしまったの」
 らにが背中から取り出したのは、真っ二つに折れたバット。ぎざぎざに割れた断面は黒く汚れている。金槌を触ったあとのような臭いがつんと強く立ち上る。
 言葉を失ったエミが怒っているのだと勘違いして、らには一生懸命説明する。
「加減がわからなかったの。だって初めてだったんだもの。らにのおうちではね、喧嘩は禁止なの、口喧嘩も。喧嘩じゃなくて議論をするのが家族のルールなの、だかららに、よくわからなくて、力を入れすぎちゃったみたい」
 らには宥めるようにバットを撫でている。バスケットボールを片手て支えることも出来ない小さな手。飼育小屋の文鳥がカラスに襲われて死んだ時、目の周りが真っ赤に腫れるまで涙を拭い続けていた細い指。

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