小説

『そらの瑕』木江恭(『王子と乞食』)

 写真立てをソファに放り出すとエミは立ち上がった。別れ際にらには言った。パパとママのお部屋には入らないでね、らにの部屋は、ドアにプレートが掛かっているからすぐわかると思う。エミはリビングを出て階段を上がる。軋み一つ立てない優雅な階段。緩やかなカーブを曲がりきってたどり着いた二階は突き当たりのトイレットまでかけっこが出来そうな廊下が続いている。いくつもあるドアをぼんやり眺めながら進んでいくと、三つ目に「LANI」のプレートを見つけた。
 ドアを開ける。ぼうと生ぬるい風がエミの頬を打つ。部屋は明るい。
 正面ではオレンジと紫という変わった取合せの、しかし上品なカーテンがエアコンの温風に揺れていた。右の壁際に寄せられたベッドの寝具は雲が気ままに泳ぐ空の模様。白いローテーブルとソファを挟んで反対の壁際に、白木の勉強机と椅子が几帳面に設置されていた。その手前にはモデルルームのようなポールハンガー、洒落た飾りのハンガーにぶら下がる制服、凝ったタータンチェックの裏地が目を引くコート、ブランドのタグがさりげなく覗くマフラー。誰かが下足室で歓声をあげていた、らにちゃんお洒落だね、ほんとカワイイ!
 壁に貼られたコルクボードに視線を移す。カラフルなピンで留められているのは外国のスタンプが捺された絵葉書、英語の雑誌の切り抜き、写真。
 エミはボードを覗き込んだ。やはりそうだった。つまらない写真だ。ふんわりとした笑顔のらに、唇の端を引きつらせてカメラを睨むエミ。帰り道に気まぐれに、枯れ枝が目立つばかりの公園で撮ったエミとの自撮り。スマホで撮ったはずだが、それをわざわざ印刷したのか。
 らにがエミに声をかけたのは転校してきて三日目のことだった。人の少ない東門を出たところで、後ろから走ってきたらにに手を掴まれた。ささくれとひびだらけの指を包むふっくらとした手のひら。
 あの、エミさんでしょ、中村エミさん。私、同じクラスの、転校してきた、大道寺らにです。朝見かけたのだけど、私たち、家がすごく近いみたい。私のおうちのすぐ裏でしょう、エミさんのおうち。
 らにが息を弾ませていたのは、エミを追いかけて走ってきたせいばかりではなさそうだった。らには長いまつげに囲まれた大きな目を輝かせて言った。よかったら一緒に帰りましょ。仲良くしてくれたら嬉しいの。
 エミは咄嗟に周りを見渡して、誰にも見られていないことを確認した。カースト間の不可侵の壁は分厚い。最上位と最下位が仲良く手を取り合っているところなど見られれば、排斥されるのは最下位のエミの方だ。それでいて下位は上位に逆らえない。無邪気なお姫様はいつだって振り回される下々の都合などお構いなしなのだから。
 確かに、らにの家とエミの家は背中合わせのお隣同士だった。レンガ模様の小洒落た一軒家と、じっとりと黴の気配をまとわりつかせた木造アパートという歴然とした違いはあるにせよ。あそこの一階がわたしの家。アパートを指差すエミにらには満面の笑顔を見せた。それじゃあ、これから毎日一緒に学校に行かない?らに、エミちゃんとたくさんお話したい。エミは頷いた。人の少ない東門を使うことと、教室ではお互いに親しくない振りをすることを約束させて。らには嫌がるどころか、秘密を共有できることを喜んだ。私たち、秘密の友達だね。

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