小説

『都会の街の喧騒の下』阿賀山なつ子(『桜の森の満開の下』)

 男は、東京の雑踏の中にいました。
 この街には背の高いビルばかりがありました。街を行く人々はみな一様に早足で歩いています。男は何年も前に田舎町から東京に越してきましたが、いつまで経ってもこの街に慣れることはありませんでした。アスファルトの固さに足を取られて、人にぶつかることが多々ありました。ある人はよろける男を無視し、ある人は舌打ちをして男を睨み、しかし誰もなにも言わずに去っていきます。
 東京の空は変な色をしています。昼間は太陽がありましたが、空気が煙っていて晴れの日でも空は灰色でした。夜になると、排気ガスでできた雲に覆われた低い空に、街のネオンが反射して赤黒く光るのでした。街はいつでも、下水とゴミ、アスファルトから蒸発した油の臭いがしました。なにもかもが、男のふるさとである田舎の町とは違っていました。
しかし男はこの街が好きでした。男は、東京で立派な仕事をしていました。仕事は順調でした。田舎にいたころとは違う、広い世界がここにはありました。今や男の周りにはたくさんの人がいました。皆、男の考えに共鳴し男を尊敬していました。男はそのことをもちろんわかっていましたが、しかし男は一人でした。
 仕事を終えた男の帰るところは東京のマンションでした。男は自分の住処をとても自慢に思っていました。窓から見はるかす夜の街は光り輝き、男は感嘆のため息をもらします。もう、田舎にいたころのことはすっかり忘れていました。男は、この街はすべて自分のものだと思いました。誰もが男のことを知っていました。
 それでも、立派な仕事をし、立派な部屋に帰ってきた男にやってくるのは底知れぬ虚無でした。しかし男はそのことがわかりませんでした。
 窓の外をもう一度見ます。この街では誰もが男のことを知っています。しかし、男はその誰のことも知りませんでした。そして男はそれが怖いのでした。顔のない、名前を持たないたくさんの人が男を褒めたたえました。中には批判する人もいました。男はその人たちと話したことがありません。話そうにも、多すぎて直接話すことはできません。誰ともわからないたくさんの人の前で男は仕事をしなければなりませんでした。称賛の拍手が男を包みます。男は自分を幸せな人間だと思いました。こんなに多くの人々に認められている自分が幸せでないわけがないと思いました。しかしこの部屋にあるのは果てのない虚無でした。
しかし男は虚無というものがわかりませんでした。なぜなら今の自分は間違いなく幸せで満たされていると思っていたからです。
 男は一人きり部屋の中をぐるぐると歩き回り、自分の立派な仕事のことを思いました。それでも、腹の底から湧き立つ正体のわからぬ不安は消えるどころかどんどん膨らんでいきます。男は叫びました。叫び、机を引き倒し、壁を蹴り床を叩きました。なにもかもを打ち壊しました。無残に散らかりきった部屋の窓からは、さっきと変わらずきらきらと無数の光が輝いて見えていました。

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