小説

『都会の街の喧騒の下』阿賀山なつ子(『桜の森の満開の下』)

「東京のネオンが光るんだ」
「ネオンが光るから、どうして」
 男は昔の自分にうまく説明がつきませんでした。なにを言っても言い訳になってしまいそうでした。それでも男は言葉を続けました。
「東京の街は音がないんだ、それでも、何かが耳に入ってくる。俺はその音の正体になりたかった」
「だから、東京に行くにはひとりでなくっちゃならなかった」
 昔の男が言いました。今の男は胸が詰まりました。取り残された自分自身はずっとこの田舎の桜の下に閉じ込められていたのだと思いました。
「この桜の森の満開の下から俺を連れていって」
 昔の男は言いました。そして、ふたりの身体のくっついたところから、桜の花びらがこぼれました。身体は花びらに変わって、やがてそれはどちらのものともわからなくなりました。そして、無数の花びらは、桜の森の満開の下へと帰っていきました。

 
 気づくと彼は東京の部屋にいました。手の中には、桜の花びらがありました。握りしめて、彼は立ち上がります。もう熱は下がっていました。
 窓を開けて、東京の街を見下ろします。街には相変わらず人がたくさんいました。彼は、この街は桜の森の満開の下に似ていると思いました。それでも、そのことに気づく人はきっとわずかだろうと思いました。一度桜の森の満開の下で死んだ彼にはそれがわかりました。
 今日も誰かがあの桜の下で鬼を殺すでしょう。彼はあの時確かに感じた手のひらの感触を思い出しました。息が、思考が、自分のすべてが止まった瞬間を思い出しました。
 彼は自分の仕事のことを思いました。ごうごうとなにかが耳の中で鳴る音はもう聞こえませんでした。果てのない虚無は、桜の森の満開の下へ帰っていきました。彼ははじめて、誰かの孤独を歌いたいと思いました。
 彼は、東京の街に向かって手のひらを開きました。低く煙った灰色の街に桜の花びらが風に乗って舞いました。きっと誰かが拾うだろう。彼はそう思って、この東京の部屋で、誰かをあの田舎の桜の森に連れていく乗り物になる歌を作ろうと、部屋に向き直りました。

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