男は不安でした。妙な汗が滲んで、拭っても拭っても止まりませんでした。それは果てのない虚無でした。
男は次第に、部屋に帰ることがいやになりました。帰らずに済むように、男は仕事を詰め込みました。男の周りの人々はそんな男をよりいっそう褒めたたえました。男は夢中でした。夢中で、朝も夜もない東京の街を走り続けていました。しかし次第になにをしていても不安が止まらなくなりました。心が休まる場所はありませんでした。身体を止めて眠ろうとしても、なにかごうごうという音が聞こえるような気がして逆にひどく疲れました。仕事をして余計なことを考える隙をなくすことで、男は不安を掻き消そうとしました。それでもその不安は消えるどころか日に日に大きくなっていきました。
そんな日が続き、男は倒れました。ひどい高熱にうなされ、身体じゅうが痛み少しも動けなくなりました。どんな薬も効きませんでした。医者は、過労のためだと言いました。
男は仕事ができなくなりました。身体が動かないので、立派な部屋に一人きりで寝ていることしかできません。働くことは男のすべてでした。それができない今、この広い部屋の中がとても狭いものに感じられました。
カーテンを閉め切り、真っ暗にした部屋の中で男は目をつむりました。やはり、風もないのになにかごうごうと音がする気がしました。布団を頭まですっぽりかぶりましたが、音は止みません。その音はどうやら耳の中で鳴っているようでした。男は叫びました。
自分の叫び声と、正体のわからぬ音が頭の中で反響して、徐々に大きくなっていきました。その音に飲まれて意識が遠のき、男はある夢を見ました。
気づくと男は生まれ育った田舎にいました。だだっ広いだけの、なんにもないところです。白いなにかが頭上から降ってきました。見上げると桜の木が一本生えていました。花は八分咲きといったところです。そこはひどく静かでした。
ふと男が隣を見ると、そこには美しい少女がいました。東京には美しい女がたくさんいましたが、その誰もこの少女には勝てないと思うほどでした。少女は、無垢でまっすぐな目をしていました。それでいて、なにか胸の内に秘めたひどく乱暴な感情が滲んでいるような、複雑な顔をしていました。
男はたちまち少女から目が離せなくなりました。この少女を自分のものにしようと思いました。なにしろ男には自信がありました。東京の街を手に入れることができたのだから、この少女を手に入れるなど容易いことだと思いました。
「ねえ、君。俺といっしょに来ないか」
男はそう声をかけましたが、少女は答えません。男は驚きました。東京の女は誰でも男のことを知っていましたから、無視をされたことはありませんでした。