小説

『逆流ヲ進メ』木江恭(『高瀬舟』)

ツギクルバナー

 白いシーツの波間から、それよりもさらに真っ白な彼女の背中が覗いている。
「シャワー空いたよ」
「ん」
 僕に背を向けて俯せのまま、彼女は手元の文庫本を捲っている。大きな枕に乗り上げて反った背骨が、薄暗いランプを浴びて細やかな陰影を帯びていた。その上半分では、鳥の骨のような肩甲骨が寂しげにせり出して一際深い影を落としている。
濃紺のブックカバーに包まれた本をサイドテーブルに載せると、ほっそりとした裸足をシーツから突き出して彼女は立ち上がった。水族館の訓練されたイルカがプールサイドに乗り上げるときのように、滑らかで無駄のない仕草だった。シーツの衣擦れの音さえほとんど聞こえなかった。
「好きなの?」
「え?」
「本」
 前々から聞いてみようと思っていた。僕がシャワーから出てくるといつも、彼女は紺色のカバーがかかった文庫本を読んでいる。
「ああ」
 彼女は裸の肩を竦めて、くすりと笑う。
「そうね。でもあれは嫌い。何回読んでも」
「嫌いなら読まなきゃいいのに」
「だから読みたくなるの」
 すれ違いざま、彼女はからかうように僕の頬に唇を寄せた。
「いい子で待っててね、ケータ」
バスルームに消えていくしなやかな背中を見ながら、僕は耳の裏を掻いた。
残念ながら僕の名前はケータではないし、最中にひっきりなしに呼ばれたタクでもない。呆れこそすれ怒る気にならないのは、初めてのことではないからだ。彼女が僕をほかの男の名前で呼ぶのは毎度のことで、たぶん僕の反応で遊んでいるのだろう。その証拠に、彼女が口にする男の名前が被ったことは一度もない。

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