小説

『桃太郎異本集成』森本航(『桃太郎』)

 むかしむかし、あるところに。
 物語はいつも、そのように始まる。
 昔どこかで、こんなことがあったのだと言う。
 そんなことはなかったのかも知れないと思う。
 そして大抵の物語はこのように締めくくられるべきだ。
 めでたしめでたし。

 昔々、あるところに、お爺さんとお婆さんがいました。
 彼らはどのようなお爺さんとお婆さんであってもいい。この時点では、お爺さんとお婆さんは一般的で慣用的な記号としてのお爺さんとお婆さんでしかありえない。それを、強いて言う必要は必ずしもない。あらゆる物語的可能性を内包した存在として、まず始めに立ち上がる。
 昔々、慣用的お爺さんとお婆さんがいました。
 慣用的お爺さんは山へ柴刈りに、慣用的お婆さんは川へ洗濯に。
「竹を取りに、ではいかんのか」と玄関口でお爺さんは言う。
「面倒くさいからやめましょうよ」と洗濯かごを持ったお婆さんが答える。
「何が面倒くさいのか」
「色々と、ですよ」
「結局、子宝に恵まれなかった我々だ。切った竹から子供が現れるやもしれぬ」
 そう言うお爺さんは何故か、どこか誇らしげである。無邪気ですらある。お婆さんは少し考える素振りをして、
「それが面倒くさいというのです。ややこしい、と言い換えましょうか」
「ふむ。まあ、そういう向きもあろうな」
 お爺さんは物わかりが良い。けれど、少し不満そうな顔をして、
「けれど、この筋ではわしは慣用的お爺さんを最後まで脱しえないのじゃないかな。お前はいい、あれこれの大事な要素を担う裏方だ」
 お婆さんがお爺さんの言葉を遮るように口を開く。

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