小説

『きこえる』鈴木まり子(『蛇婿』)

 そのとき、コートのポケットから、携帯が転がり落ちた。エリは、携帯をつかむと、家の外に飛び出した。
 玄関を出たところで、エリは、正面から誰かにぶつかった。よろめいた体を、だれかの腕に支えられる。顔をあげると、いつか畑で出会った若い男がほほ笑んでいた。エリは、その男の目をまっすぐに見返した。男は、はっとするくらい整った顔をしている。思い出した。あの夜、池で出会った男だ。男は、やわらかな声で、
「行こう」
と言った。そして、なめらかそうな白い手を、エリに向かってさしだした。エリは、その男の手を取った。
 手を取り合った二人は、走り出した。風をきって、走る。エリは、ほおにあたる風が心地よくて、顔をほころばせた。迷いなどない。走って、走って、走って、池に着くころには、二人は、二匹の白いへびになっていた。二匹のへびは、池に飛び込むと、よりそいながら、水底へと泳いでいった。
 池の淵には、白い小さな花が、たくさん咲いている。そこには、エリの赤い着物が落ちていた。

 エリは、水の中で、携帯が鳴る音を聞いた気がした。着信に気づいた和也がかけ直してきたのかもしれない。水底に横たわり、まどろんだ頭で、エリはそう思った。エリは、もう一方の蛇に、頭をもたれかけた。へび神は、体を少しずらして、エリの頭を受け止めた。エリは、全身を相手の体にからめた。
 今は、こうしていよう。いつか、水が涸れ果て、骨が土に還るその日まで。

 

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