小説

『きこえる』鈴木まり子(『蛇婿』)

 エリが、一人で畑に出ていたとき、ふいに、ぽちゃんと落ちる水滴の音がした。はっとして、エリが顔をあげると、若い男が、畑の近くに立っていた。村では見かけない顔だ。エリと目が合うと、男はかすかにほほ笑んだ。
「何を、とっているんだ?」
男は、エリにたずねた。エリは、どぎまぎしながら、
「なっぱ」
と答えた。男は、
「ほら」
と言って、白い小さな花を差し出した。エリが黙って、その花を受け取ると、
男は、顔をくしゃりとさせて、子どものような顔で笑った。男が他にも何か言おうとしたとき、家の中から、おばあさんが呼ぶ声がした。男は、
「ここで会ったことは、誰にも言ってはならん」
と小さな声で言った。
「エリ」
おばあさんが、もう一度大声で、エリを呼んだ。エリがその声に気を取られて、目を離した瞬間に、もう男の姿は見えなくなっていた。
 誰だったんだろう。エリは、床についてから、畑で会った男のことを思い出していた。ずいぶん白くて、なめらかな肌をしていた。畑仕事なんかしたことないような高貴な身分の人かもしれない。でも、どこかで見覚えがあるような気がするけれど、それがどこか思い出せない。その男は、それっきり、エリの前に姿を見せなかった。でも、ときどき、一人でいるときに、ぽちゃんという水音が聞こえる気がした。

 その日、おじいさんとおばあさんが村の寄り合いに出かけ、エリは留守番をすることになった。
 二人と、この家で暮らす日も、もう残りすくない。隣村の男と縁談が決まったのだ。会ったこともない相手だ。でも、この村の習わしにしたがって、親の決めた相手と結婚することにした。
 自分の着物を整理していたとき、たんすの奥から、妙な着物が出てきた。どこかで見たことがある生地だ。エリは、体が震えた。これは、コートだ。初めて、池の淵に立った夜のことが、ありありと思い出された。どうして、今まで忘れていられたんだろう。
 

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