小説

『雪花』沖原瑞恵(『雪女』)

 明くる朝にはすっかり熱も引いていたが、弥作はそうとは告げず、咳き込んだり鼻をすすったり、あれこれ病人のふりをした。そのたびにお雪はとんで来て、甲斐甲斐しく世話を焼くのだった。これが弥作にとっては不思議なことで、いつまで看病をしてくれるのだろうかと試す気もあり、十日はこうして風邪引きのふりをしていたのだが、十一日目の朝、ついに寝すぎて軋む身を起こした。
「お雪」
 声をかけると、どこから引っ張り出したのか、古い弥作の衣を繕っていたお雪が寄ってきて、寝具の横でちょんと膝を折った。弥作は枕元に置くようになった筆と紙を、お雪に手渡す。
「この十日、おれはお前にたくさん世話をしてもらった。何かお礼をしたい」
『とんでもございません』
 お雪は流れるように筆を走らせた。
『弥作様は身寄りのない私をここへ置いてくださいました。それで十分でございます』
「なあ、ひとつ尋ねてもいいだろうか」
 問うと、お雪が微笑む。こうして見ると、白すぎる肌といい、なまめかしくたわむ口元といい、人の子とは思えない妖艶さがあった。
「なぜここまでして、おれを助けてくれるんだ」
 とたん、笑みを引っ込めたお雪に、弥作は畳み掛ける。
「この十日、お前は寝も食いもせず、ずっとおれに付きっ切りだった。それは、なぜだ」
 十日前、ここへ来たときに比べ、お雪の頬はすっかりこけてしまっていた。
 答えぬお雪を置いて弥作は立ち上がり、囲炉裏の縁に膝をついた。鍋の底に残っていた昨夜の粥を椀によそい、お雪に差し出す。
「お前が作ってくれたものだから、礼にはならないかもしれないが。お食べ」
 弥作を見るお雪の瞳が怯えるように揺れた。きりりと唇を引き結んだまま、首を振る。
「遠慮することはない。さあ」
 ずいと椀を突き出すと、お雪は膝を擦りながら下がり、床に手をついた。深々と頭を下げるお雪の艶やかな黒髪を、弥作は見下ろす。
「それは、どういう意味なのだ」
 お雪は顔を上げない。ただ、小さな背中が小刻みに揺れていた。
「……なぜ泣く」
 弥作が努めて穏やかに尋ねると、お雪は顔を伏せたまま筆を引き寄せ、
『食べられぬのです』
 と震える字を書いた。
「食べられぬ?」
 なおも問いを重ねる弥作に、お雪はしばし紙の上で手を惑わせていたが、やがて筆を置くと衣の袖でそっと頬を拭った。そしてようやく顔を上げると、弥作の手から椀を取った。ひやりとした指先が、弥作のそれと触れる。匙を口元まで持ち上げると、紅色の唇がそっと開いた。弥作の前で初めて開かれる口唇から磁器のような歯がのぞいた時、匙の先がぴしりと音を立てた。
 お雪の微かな息吹にふれた粥に霜が降りる。木の匙の先が凍りついた、と弥作が思った瞬間、お雪が匙を落として素早く立ち上がった。衣を翻して滑るように戸口へ向かう。
「待て、お雪」
 制止を聞かぬお雪を追って、弥作も立ち上がる。
 外は吹雪だった。弥作は腕を上げ、叩き付ける雪から顔を守りながら、風景に溶けて消えてしまいそうなお雪の白い衣を懸命に追った。

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