彼らはそれをどのように受け取るだろう? このことを考えると、私は彼らに忠告をしたくなってきた。夫婦関係、結婚生活というのは、きみたちが思っているほど容易いものではないんだぞ、と。
自分たちはどうだっただろう、と私は考える。結婚当初はやはり、これからの生活に馳せる期待が大きかったはずだ。私が働き、妻は家事をこなす。子供ができた時のことを考えて、広めのマンションの一部屋をローンで購入し、二人で暮らす。子供が未だできていない、というのも問題だったのだろう。一つの空間を二つに分断するのに、その部屋の広さは十分すぎた。
あの家は、私たちの部屋の何倍の広さだ? 坂道を下っていた私は、ふとそう考えて頭上にある家を見上げてみた。緑色の傾斜の上にひょっこりと顔を出すその白く大きな建物は、人が暮らすには贅沢すぎる上流のもののように見えた。何も知らない人があの家を見上げていれば、多少はオーバーな想像を巡らすこともできるだろう。たとえばあそこでは日々、コックが作るような豪華な食事が並び、人生の成功者たちが招かれて、ささやかなパーティが行われ続けているのだろう、などと。しかしあそこで実際に暮らしているのは、実生活では孤立していて、サーフィンをすることばかりを楽しみとしている、たった二人の男女だけだ。沙弥さんの作る昼食はとても美味しかったが、料理そのものは、どんな家庭で並んでもおかしくはない一般的なものだった。
彼らは若くして、一般大衆という枠から事業に成功した金持ちへと羽ばたいたのだが、金を持つということに慣れてはいないようだった。このギャップが、人を、私を、慄かせてしまうのだ。
家を買ったのは、子供ができた時のため、両親を養わなければならなくなった時のため、と彼らは食事中に言っていた。立派な考えだ。だが、一般的な考えだとも思う。私だって、それくらいのことは考え、実際に広い部屋を購入した。このことが、今の私を苦しめる材料になっている。未来に備えたはずなのに、想定していた未来がやってくることはなく、備えが裏切りというかたちで私たちのことを襲っている。
しかしそのまま彼らの家を眺めていると、ひょっとして間違えているのは私のほうなのかもしれない、という思いが頭をよぎった。なんといっても、彼らが見せた笑顔に、私が危惧するようなネガティブな面はわずかたりとも含まれてはいなかった。夫は顔をくもらせる瞬間もあったが、それは妻を心から心配する気持ちの表れだった。そして妻は、そんな夫の心配を軽く一蹴してみせた。……いったいどこに、他者が忠告しなければならない事柄があるというのだろう。
彼らの家で私は自分自身の話もした。さすがに多くを語ることはしなかったが、彼らもまた、私の深い事情に関して尋ねようとはしてこなかった。彼らは知っているのだ。他者からの忠告というものがどれほど意味を為さないものなのか。彼らのかつての友人たちも、事業展開を進めようとする彼らに対して、一般的な立場からさまざまなことを言っただろう。しかし彼らは自分たちの意見を押し通して成功し、周りにいた人々は離れていった。つまりは、そういうことなのだろう。
そして彼らは二人きりになった。しかしそれでも……いや、だからこそと言ってしまってもいいのかもしれないが……二人の結びつきはとても強く深いものとなった。そして彼らは今、共に仕事をして、あの広い家で共に暮らしている。今現在のプライベートを楽しんで、未来のための仕事に勤しんでいるのだ。
私のほうはどうだろう? こう考えるとむしろ、私は彼らの意見が聞きたいと思った。今から坂道をのぼってあの家に戻り、社交辞令として自分を語るのではなく、すべてを剥き出しにして、自分自身を洗いざらい吐き出してしまったうえで、彼らがどう感じるのかを知りたいと思った。