「実はですね、最初、いきなり経営をしようなんて、僕も思っていなかったんです。それよりもほかのみんなと同じように、どこかの歯科医で働いて、ある程度は実践経験を積んで、それからだと考えていました。そうしなかったのは、沙弥の後押しのおかげだったんですよ。僕のほうはほとんど冗談のつもりで経営の話をしてたんですけど、あいつはすごく乗り気になりまして。初期費用も半分以上はあいつのほうで工面してまして、まあ、共同経営みたいなものですかね。僕なんか、あいつのアイディアに必死になってついていくばかりなんですよ」
私は目をぱちぱちとしてから、「ははあ」と言った。「なるほど。たしかに言われてみれば……活力に満ちた女性ですよね。今の時代、女のほうが強いなんて言いますが……」
「人は見かけによらないでしょう。僕なんか、付き合いはじめてからずうっと、尻に敷かれてますよ。仕事でも、実生活でも。しかし、だからと言ってはなんですが、あいつ……沙弥も、けっこう自由に振る舞えているんじゃないかなと思うんですよ。どんな時だって、僕がなにかに悩んで沙弥に相談したりすると、あっちの方が勝手に動いていたりしますから。正直、僕があいつに敵うところなんかないんじゃないかなあ」
「そんなんじゃ困るんですけどねえ」と、浩貞くんの後ろから沙弥さんが言った。私のほうからは、彼女がバルコニーに来て話を聞いているのがわかったが、浩貞くんは声をかけられるまで気がつかなかったようで、ひどく驚いていた。
「わかります? 夫がこんな調子だから、任せきりにできないんですよ。今はたまたまうまくいってますけど、どこでどう転ぶかなんてわからないんですよね。経営なんて、ぜんぶ自己責任なんですから」
浩貞くんはなにか言い返そうとしていたが、沙弥さんは手のひらを前に出すことでそれを制して私のほうを向いた。
「ところで、食事の準備ができましたので、どうぞ下へ。お口に合うといいんですけど」
私は笑ってうなずいてから、浩貞くんに「これは勝てないね」と言った。浩貞くんは私に笑い返し、沙弥さんは首をかしげていた。
「あんまり前から聞いてたわけじゃないから、この人からなにを吹き込まれたかわかりませんけどねえ。でも、あんまりわたしだけを万能扱いしないでくださいね。どっちかというと、なんでも、舵をとってるのはこの人のほうなんですよ。わたしはこの人が決めたことの後押しをしてるだけなんですから」
「押しすぎだよ」と浩貞くんは口をとがらせ、沙弥さんは黙って彼の頭を小突いていた。私は後ろで、そんな二人のようすを見守っていた。
楽しかったのは本当だが、胸中には複雑なものがわだかまっていた。
食事を終え、その場で一時間ほど過ごしてから、私は彼らの家を後にした。車で送ると浩貞くんは言ってくれたが、私は歩いていくことを選んだ。このままカフェに入って仕事をしようと考えていたこともあるが、少し歩いて考え事をしたかったのだ。
彼らは大学時代から交際していたと言っていたし、お互いを深く知り、気を許しあっている雰囲気があった。しかしそれでも、彼らの関係はとても初々しいものとして目に映った。それはきっと、あの家のせいだろうと私は思った。新築の様相を維持させながらあまり手を加えられていないその空間は、そこでの生活はまだはじまってもいない、という印象を与えていた。どうやら彼らが毎日サーフィンをするような時間ができたのは最近のことで、今はその時間を楽しむことに夢中なようだが、日常におけるさまざまな問題が生じてくるのは、きっとこれからのことなのだろう。