営業終了後に、もうこれ以上かばいきれないし、店全体の士気もお前のせいで下がっているんだと言われた時に、「お世話になりました」と言ってしまった。自分の中でもこれ以上この環境で働き続けるのは厳しいと気づいていたからこそ、すっと出てきた言葉だった。
帰りの地下鉄の中、窓に映る自分の顔は怒っていた。マネージャーに怒っていたのではない。面倒臭い客に怒っていたのではない。なんでもいいなりになっている同僚に怒っていたのではない。ワインが好きで毎日がワクワクしていたあの頃を、思い出せなくなってしまっていた自分に怒っていた。自分を思ってくれている人に応えられないこの性格に、怒っていた。
東京を出よう。その時に決めた。生まれてから30歳になるこの歳まで、当たり前のようにずっと住み続けてたこの街を出ようと。東京以外の場所で暮らす選択肢など、それまでなかった。しかし自分の生活を劇的に変化させる必要があると思い、その足で代々木のレストランのオーナーに報告に行った。
オーナーは何も聞かずに、開店以来直接ワインを仕入れ続けている、山あいの町のワイナリーを紹介してくれた。決して大きくない規模だが、醸造用のブドウの栽培からワイン製造まで一貫して自社で行なっている老舗だ。化学肥料を使わない畑作りと、オーガニックぶどうの栽培をイチから学べるという環境と聞き、胸の奥がムズムズするような懐かしい感覚を覚えた。
もう一度、あの頃のひたむきな気持ちを取り戻すために、ソムリエという職を離れることを決意した。古くから国産のワインを作り続けている醸造所がたくさんあるその町で、実際に作り手となってワインと向き合ってみようと決めたのだ。「俺が連絡をしといてやるよ。」と言ったオーナーの、少し深くなった目尻のシワに頭を下げた。オーナーの「ばかやろう。」の言葉を聞きながら、床を見る視界が少し滲む。
人で溢れかえる新宿駅でバックパックを担いで、この街ともしばらくお別れだな、と一瞬立ち止まって思った日が、もう何年も前のことだったように思えるから不思議だ。それくらい、今の自分が何の違和感もなくこの土地に溶け込んでいることが、何だか誇らしく思えてくる。
この町に引っ越してきて以来住んでいるのが、農園にも自転車で通える距離にある集落の小さな木造一軒家だ。もともと老夫婦が住んでいたらしいのだが、施設に入って長年空き家状態になっていたのを、格安の家賃で借りることができた。東京で一人暮らしをしていた頃のマッチ箱のようなマンションの一室と違い、陽あたりのいい大きな窓もあり2階建てというところが気に入っている。
ワイナリーで働き始めて間もない、5月のある日のこと。朝起きてから、玄関先の郵便受けをチェックしに行った。入っていたチラシや封筒を掴んで引っ張り出した時、一緒に中から何かが転がり落ちた。小石のような大きさで陽の光に反射してキラッと輝いたそれは、小さなボタンだ。その青くきらめくボタンを拾い空に透かしてみる。
これまでも郵便受けに物が入っていたことはあったが、大抵枯れた草や紙切れといったものばかりだった。よく見かける小さな鳥が巣でも作ろうとしていたのだろうと思い、気にすることなく捨てていたのだが、その日入っていたボタンは捨てることができなかった。花のような模様が浮き上がったその陶器のボタンは、とても精巧にできていて高価そうに見える。もしかしたら近くに住んでいる人の落し物かもしれないから、一定期間保管しておくことに決め、キッチンにあった空っぽのジャムの瓶にそっと入れた。