「あっ!」
瞬きをした時にはもう遅かった。柔らかな光が差す出窓のカーテンが揺れると同時に、小さな影が空へと羽ばたいて行ったのが見える。急いで窓辺に駆けよってみると、ボタンが消えていた。それは去年代官山の蚤の市でボーイフレンドが買ってくれた、東欧製のアンティークで、陶器でできた浮き上がる花の文様が美しいボタンだった。今朝ブラウスから取れかけていたので、外して出窓に置いておいたものだ。
サワサワと風が吹く、濃い緑の木々を窓からぼんやり眺めながら「まあいっか」、と私は投げやりに呟く。もう彼とは別れたのだから、ちょうど良かった。気分転換するため、私はここにきたのだし。旅行から帰ったら、他の品も処分しよう。そう思うと胸のあたりに居座っていた雲が、少し晴れたような気がする。
都内の出版社で働く私は、カレンダー通りの休みすらままならない。校了日前ともなると、その日ランチを食べたかどうかさえも思い出せないくらい忙しく、誰も彼もがグチを言う暇もなくバタバタと駆けずり回り、徹夜や休日返上もザラという世界。だから校了1週間前にボーイフレンドから別れを切り出された時も、悲しむ余裕もなくただ目の前にある仕事を期日内に全て終わらせることだけに没頭し、時間は過ぎて行った。
やっと仕事が落ち着いて家に帰った途端、ドアが乱暴にノックされる。限界まで削られてやせ細った「睡眠時間」がやってきて、「じゃあツケは払ってもらうぜ」と借金取りのようなセリフを言いながら、容赦なく私をストレートKOするのだ。薄闇の中パチリと目を開けた時には、それが早朝なのか夕暮れなのかも分からず、スマートフォンの青白いスクリーンを見てやっと「ああ、夕方…」と気づく。軽く痛む頭はずっしりと羽毛の枕にめり込んだままで、喉はカラカラだ。
コーヒーでも飲もうとお湯を沸かし始めて、ルーツが伸びたボサボサの髪を撫でながらようやく思い出す。そうだ、私フラれたんだった。でもその時には完全にタイミングを逃してしまっているのだ。悲しむタイミングを。「もっと時間に余裕があって、定期的に会うことができる人じゃないと、俺無理みたい。ごめん。」そう言って別れを切り出された。言い返す言葉もなかった。だよね、フツーならそう思うよねと、彼に同情すらした。月の半分は会える時間がないどころか、返信が3日遅れの彼女なんて、そりゃ嫌だよね。
山ほど砂糖を入れたコーヒーをぼんやりとすすりながら、ふと思う。私、失恋で泣いたの、いつが最後だろう。はっきりと思い出せないくらい前、多分まだ私は20代だった。30歳をむかえてから一滴の涙も出なくなってしまった自分を、なんだか少し不気味にさえ感じるこの頃。もう二度と泣けないんじゃないのかなと思ったら、妙な焦燥感を覚えたりもする。