私はきっと疲れすぎているんだ。どこかこの都会の喧騒から遠く離れた場所に行き、きれいな空気を吸って美味しいものを食べて、人間らしい心を取り戻す必要がある。おもむろにパソコンを開き、キーを叩く。疲れた三十路女が一人で気楽に過ごせる、旅行のプラン探しだ。こういうのは思い立った時に予約してしまう勢いがないと、結局また先延ばしにしてしまうのだから。
そうやって探し出したのが、築100年は優に超える蔵を改築したこのホテルだった。朝食付きの宿泊というシンプルなプランで、そこを拠点に自然豊かな観光名所を巡りやすいという点が決め手となった。祝日とくっついた週末の2泊3日ひとり旅にちょうど良いロケーションで、美味しい国産ワインの産地であることもこの土地の魅力の一つだ。
東京にはない澄んだ空気とマイナスイオンに癒されながら、いろいろなスポットを巡りホテルに戻って来たところ、受付の初老の男性スタッフがきさくに声をかけてきた。
「おかえりなさいませ。今日はいい天気だったので、観光も楽しめたのでは?」
「はい、今日は滝を見てきました。すごくきれいで散歩も気持ちよかったです。あのー、ホテルの近くで美味しいレストランなんてありますか?予約なしでも1名で入れるような。」
「ええ。ありますよ、いくつか。レストランというよりは、洋風の居酒屋のような雰囲気ですが。」
「あ、そんな感じがいいんです。かしこまってないというか。ちょっとしたおつまみとワインがあるような、そんな感じの。」
「でしたら、地元のワイナリーで作られたワインを扱う人気のビストロがありますよ。ぜひ行ってみてください。住所、書きますね。」
彼からもらった紙に書かれた住所を、スマートフォンの地図アプリに入れて私は歩き始めた。その店はホテルから徒歩20分ほどの場所にある、古いビルの1階にあった。小さい看板には「BISTRO Le Lien」と書かれており、白塗りの壁にカンテラ風の街灯から漏れるオレンジ色の光が揺れている。
初めてのお店、しかも一人なので少し勇気がいったが、扉を開けてみた。店内は少し暗めの落ち着いた照明に、カウンター席が4つと4名がけのテーブルが2つのみの小さな空間。壁の黒板に、小さくて丁寧な文字でメニューが書かれている。
「いらっしゃいませ」とカウンター横にいた女性が言った後、厨房の奥から男性の声の「いらっしゃいませー」が追いかけてきた。きっと夫婦で切り盛りしているお店なのだろう。
一人なのでカウンターでいいかと思ったが、女性がテーブルを勧めてくれたので、悪いなと思いながら座る。リストを見て地元のワイナリーで作られている赤ワインのボトルを1本注文し、それに合いそうな料理も数品注文した。ワインは去年作られたもので、フルーティーで飲みやすいタイプだ。料理もどれも丁寧な仕込みがされており、地産の食材の味が存分に活きた、お酒に合うものばかりだった。