今までこんな風に、グラス片手に一人で食事を楽しむことなどしたことがなかった。同僚と居酒屋に飲みに行くことはあるし、ボーイフレンドがいる時は、一緒に夜景の見えるレストランでディナーをしたりもする。しかし誰とも話すことなく、一人きりでじっくりとワインと料理を味わったのは初めてだった。
誰とも共有しないその時間は少しさみしくも感じられたが、一方で誰も知らない私だけの贅沢で特別な経験であるようにも感じられた。後から来た2人連れの男性がカウンターに座り、ワインを飲みながらなにやら楽しそうに話をしているのを横目で見ながら、「いいね、こういうのも悪くない」と思ったのだ。
スマートフォンをいじるでもなく、本や雑誌を読むでもなく、黙って女一人でボトル1本を軽く空けたわけなのだが、店主もフロアの女性スタッフもカウンターの男性客も好奇の目を向けるでもなく、ゆるゆると平和で静かな時間が流れていった。人との気持ち良い距離がある、ニュートラルな安心感のようなものがそこにはあった。
「全然悪くない」
ほろ酔いの千鳥足でホテルまでの道を歩きながら、満点の星空を眺めながらもう一度つぶやく。胸いっぱい吸い込んだひんやりとした空気で肺が膨らむ感覚に、体の中に溜まった毒素が少し減ったよう気がした。それ以来私は、半年に一度この贅沢で心地よい空間を味わいたくて、この地に通うようになるのだ。
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カササササっというかすかな音に反応して、私は顔を上げた。開け放った窓の外に小さな黒い影が見え、思わずにんまりする。
2度目にこのホテルを訪れた時は、秋が深まる10月中旬。新緑の時期とはうって変わり、空気は乾いて軽く木々は色とりどりに葉の色を変えていた。標高が高いせいもあり、夜は窓を閉めていないと風邪をひきそうなほど寒いのだが、朝起きてから窓を開けておくと、爽やかな秋風が部屋に入ってくる。
ベッドサイドテーブルの横の床に落ちた本のしおりを拾おうとして顔を下に向けた時、伸ばしかけの前髪を止めていたヘアピンが落ちてしまった。小さなビーズでできたぶどうの飾りがついたヘアピンは、都内の雑貨屋で見つけたもので、ここに旅行に来るときにつけてこようと思い購入したのだ。ぶどうの飾りがこのワインの産地にぴったりだと、思わず店の中で一人にやっとしてしまったのを思い出す。拾ったヘアピンをとりあえずそばの出窓に置き、しおりを本に挟んでいたときだった。
急に小さな影が外から飛び込んできて、一瞬の隙にヘアピンを持ち去ってしまった。「あっ!」と叫んだときにはすでに遅く、それが何メートルも向こうの空を羽ばたいていくのが見える。鳥だ。名前は知らないが、そんなに大きくないコロッとした形の鳥だ。