「もう!せっかくお気に入りだったのに!」と、地団駄踏んだところで思い出した。そういえば、初めてここに来た半年前もこんなことが…。そうだ、あの時は取れてしまったボタンを持ってかれたのだ。
あの時は、初めての旅行から帰ったらなんだかんだ言って、彼を引きずってしまい落ち込んだりするのかな、などと思っていた。しかしそんなこともなく、また殺人的に忙しい日々に追われて、気づけば半年経っていた。ふうっとため息をつき、もうあれから半年かと鳥が消えていった方を見ながら、腕組みをする。
その2度目の旅行以降、私は鳥へのプレゼントを持って来るようになった。1日目の宿泊が終わった翌日の朝、朝食をホテルで食べ部屋に戻ってきて、窓を大きく開けて空気の入れ替えをする。そして出窓の真ん中に、片方だけになったピアス、ネックレスのチャームなど、お気に入りだったがもう使わなくなってしまったアクセサリーやらを置いておくのだ。そして窓から離れて外出の用意をしていると、小さな羽ばたきの音とともに鳥が飛んで来て、私からのプレゼントを持って行く。
もうすでに片手では数え切れない回数、この儀式を繰り返してきた。一体あの小鳥はどこに行くのか分からないけれど、自分が来るたびにプレゼントと交換に「いらっしゃい」と言ってくれているように感じて、少し嬉しかったのだ。誰にも話したことのない私と鳥の儀式は、この地に来る楽しみの一つとなっていた。
今日も天気がいい。今回は富士山が見えるところまで行って、自転車のレンタルをしてサイクリングを楽しんでみよう。たくさん体を動かしてクタクタになって帰ってきたら、今夜の「BISTRO Le Lien」でのワインと料理も、きっと格別の味になるだろう。よしっと独り言を言って、リュックを肩にかけ立ち上がる。
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もうここに来てそろそろ1年か、と思った。1年前まで東京にいたことが、はるか遠い昔のことのように感じられる。街の喧騒、人混み、交差点の交通渋滞、そして電車の窓に映る疲れた不機嫌な自分の顔。すべてが本当にあったことかどうかも疑わしくなるくらい、ここは東京の対極にある静かで平和な町だ。そろそろ昼の休憩が近いな、と思いながら1年前と比べ随分とたくましくなった自分の腕を見た。
東京の下町で生まれ育ち、特にやりたいこともないまま高校を卒業して、数年はだらだらと暮らしていた。勉強は得意ではなかったし、当時好きだったバンド活動も仕事にしたいと思うほどの熱意もなかった。実家にいながら適当なバイトを続け、学生時代からの友達と何をするでもなく、夜の繁華街をふらつく毎日が楽しかった。
そんな生活を180度変えたのが、あるビストロでのバイトだ。オーナーと従業員数名で営業している、代々木にあるカジュアルで小さな店だった。店主はとにかくワインが大好きで、自分の好きなワインを好きなだけ飲みたいという理由で、脱サラをして店を始めたという。料理はさっぱり分からないからシェフに任せっきりだが、ワインに関してのこだわりには定評があり、その道のマニアが通い詰めるような店だ。
その店で働き始めて、初めてワインを美味いと感じた。ナチュール・ワインと呼ばれる、農薬や化学肥料を使わない、できるだけ自然のままの製法で作られるワインを知った時は衝撃だった。生まれて初めて、自分から何かについてもっと知りたいと思った。その店では本当にたくさんのことを教わった。オーナーは惜しげも無く自分の知識を分けてくれ、缶入りのチュウハイしか飲んだことのないような、お子様な自分を育ててくれた。