「僕は……一人旅が好きで……なんて言えたらかっこいいんでしょうけど、ただの現実逃避です。ストレスに押し潰されそうになってしまいまして」
明るくそう言った青年の顔からは、ストレスなどというものは微塵も感じられなかった。
「近頃の社会では、皆がストレスを抱えながら生きてますね。求められるものが多すぎるのかな」
「そうかもしれないですね……時々、逃げ出したくなることがあります、何もかも投げ捨てて」
その言葉に、私は胸が抉られたような気がした。
今から約五十年程前-
その時の私がまさに全てを投げ捨てた若者の一人だった。
私の親父は建具職人だった。今でこそ需要は減ったが、当時はその技術が必要とされた。特に親父の技術はこの辺りの地域ではずば抜けていたのだ。
親父は祖父の代から続く建具屋を彼の代で終わらせたくなかった。本来ならば跡を継ぐのは長男である私の役目だったが、私はあまりにも若かった。世間を知らず、ただ夢さえあれば何とかなると信じて疑わなかったのである。幼き頃から夢だった役者となり、富と名誉を手に入れる姿しか想像できなかったのだ。
もちろん、そんな私を両親共に猛反対した。建具屋を継がないことより、無謀な夢を抱く世間知らずの若者の存在そのものに。
しかし、そんなことは一切聞き入れずに私は逃げ出した。全てを投げ捨て、叶うと信じて疑わなかった夢を追い求めるためだけに。
「それで、東京に?」
「そうです」
「じゃあ、結局、お父さんの代で終わったのですか?」と言った青年が珈琲を飲むのを確認してから私は応えた。
「弟の和幸がその全てを引き受けた。いや、押し付けられたというのが正しいかな」
老人の表情は一段と曇ったように見えた。
「最後に謝りたくてね。才能、知識が溢れた彼にこそ、私なんかよりもっと現実的で大きな夢があったのに……それを諦めさせてしまった……」
僕は何と声をかければ良いのか分からなかった。僕は老人の名前さえ知らない。しかし、いくら他人とは言え、僕の発する言葉はどれも無責任に思えるのだ。
「きっと、大丈夫だと思います……とにかく、やらなかった後悔はやった後悔より大きいって、僕は、そう考えるようにしてます」
沈黙を打ち破るために漸く出た言葉は、結局は無責任なものだった。
老人は黙ってカップを口へ運んだ。
彼の言う通りだった。これまで数十年にも及ぶ年月は、大きな後悔として私の胸を締め付けている。私は自分自身が情けなくて仕方なかった。
「ただ、年齢を積み重ねてきただけの人生だ。せめて最後に一つくらい嬉しい出来事があったら良いんですがね」
「これ、僕の個人的な意見だから気になさらないで下さい……僕が弟さんの立場なら許すかな。せっかくお兄さんが会いに来てくれたんだし」
青年の言葉は、まるで和幸の発した言葉のように思えた。
私は一つ息を吐いた。