私は歩みを進めた。
栄町商店街を歩くと幼少期の思い出が蘇る。胃が悪かった親父は、この近くにあった胃腸病院に通っており、その待ち時間には決まって弟とお袋の三人で商店街の駄菓子屋にやって来たものだ。そこで駄菓子を買ってもらうことが私たち兄弟の楽しみだった。
それから数十年もの月日が流れる。商店街から駄菓子屋は消え、そこと思われる場所には土産物屋があった。それでも『老舗』と言われるような古くからの店も点在しており、いずれかの店で買い物をしたことがあるのかもしれないと考えると、なんとも不思議な感じがした。
私が予約したホテル『一期一会』。
以前、そこには清酒製造工場があった。その広大な跡地に今ではホテルやマンションが建ち並んでいる。
当時の景色に想いを馳せながらフロントへと向かった。
「ようこそ、いらっしゃいませ。ご宿泊ですか」
「ええ、川上と申します」とハットを脱いでお辞儀するのが、ごく自然な振る舞いと感じさせるフロントの紳士的な対応である。私は心地良く宿泊の手続きを済ませた。
五〇三号室の窓からは街の様子がよく見えた。景観を壊さぬため高い建物は存在しない。少し日が傾き、やがて西に見える朝熊山へ沈もうとしている。参道の街路樹は少し色づき始めた頃だ。
私は赤く染まる故郷の街並みをこの目にしっかりと焼き付けておきたかった。
この街にある伊勢屋酒造の『幸』という日本酒は、新鮮な魚料理とよく合った。ついつい飲み過ぎてしまい少し足がふらつくが、飲み過ぎたことを自覚できているから大丈夫だ。
それにしても夕方の五時から飲めるとは、なんと幸せなことだろうか。僕が店を出る八時前にちょうど仕事帰りのサラリーマンがやって来た。いつもの僕ならようやく仕事を片付け始め帰社準備をしている頃だ。なんとなく勝ち誇った気分だった。
幸之神神社は厳かな雰囲気で、鳥居をくぐった瞬間から神聖な空気に身を包まれた気がした。踏み締める玉砂利の音が心地良い参道の両脇には大きな杉の木が聳え、神在(じんざい)川の御手洗場は水が澄みきっていた。そのせせらぎに心まで洗われたようだった。
これからホテルに戻ってカフェで珈琲を楽しむ。なんと優雅で贅沢な一日だろうか。ただ感情の赴くままに行きたい場所へ行き、見たいものを見て心で感じる。
それは、僕の忘れていた大切なことかもしれない。
「ホットをお願いします」
「かしこまりました」
ジャズが流れる間接照明の落ち着いた店内には十ほどのテーブルが並び、疎らに客が座っている。僕は店の一番奥の席に座って店内の様子を眺めることにした。人間ウォッチングってやつ。