漂う珈琲の香り-
香りの先を目で辿ると、そこにはロビーに併設されたカフェ。
これを楽しみにしていたのだ。ここでは深夜まで本格的な珈琲を味わえるそうだ。まずホテルの名前に惹かれた僕は、このカフェの存在により予約を決めた。
「磯川様、ありがとうございます。本日より一泊二日でご予約を確認致しました」
「よろしくお願いします」
「生憎ですが、チェックインの時間は14時となっておりまして……」
申し訳なさそうな表情を浮かべる彼の向こう、カウンターの壁に掛かる時計がちょうど正午を知らせる。
「すみません、荷物だけ預かってもらえませんか?」
「ええ、もちろんです」
なんと感じの良い笑顔だろうか。
僕はフロントでリュックを預け、ホテルを出ると幸之神神社へと向かった。
数十年振りに故郷の地を踏んだ。
不思議なものだ。街並みは変わっても漂う空気はあの頃のままである。故郷を捨てたはずの私が、今、この地でただただ懐かしさを感じている。
この街は幸之(さいの)神(かみ)神社を中心として栄えた。そして、それは市民の心の拠り所でもある。神聖な空気が街全体を覆っているような気がした。
私は駅舎の前に立ち周囲を見渡すと、ゆっくりと目を閉じた。
浮かび上がるセピア色の景色-
幼き私が両親と手を繋ぎ、笑顔で百貨店へと向かって歩く姿。
小学生の私は電車で行く遠足に心踊らせ、友人達と笑顔で言葉を交わす。
高校生の私は真新しい制服に身を包み、少し緊張した面持ちである。
そして、街を発つ日-
くわえ煙草の私は憮然たる面持ち。見送る者は誰もいない。駅舎の前で投げ捨てられた煙草から黙々と煙が立ち上る。
私のすぐ横を青年の私がすれ違う-
一瞬、煙草のヤニ臭さを感じた気がした。
振り返ると若いサラリーマンがスマホ片手に改札へと向かう姿。
「まさかな」と私は呟く。
この駅には数えきれない思い出が溢れている。
杖を支えにして丸くなった背中を伸ばしたが、今度は背負ったリュックの重みで後ろへ倒れてしまいそうになった。
「大丈夫ですか」
「ええ、すみません。ありがとう」
通りすがりの他人に手を差し伸べられるほど、私は随分と年老いてしまった。やはり、これが最後の帰省になるだろうという事実を再認識する。