カンパリソーダに口をつける。彼女に流れ込んでいく鮮やかな赤。揺れるキャンドルの光がその赤を美しく輝かせる。
「もちろん、その人とはすぐに別れたそうです。不倫ですもんね。でも」
くすりと笑みが浮かんだ。ゆるりと視線が流れて、俺の上に止まる。
「思い出してしまうんです。たくさん彼の話を聞いたから、彼のこと、たくさん知ってしまったから。子どもの頃見ていたアニメ、高校時代にコピーしてたっていうバンド、大嫌いな芸能人、人生で一番感動した映画、初めて買った車のこと、理解できなかった本、お気に入りの洋服のブランド。もっともっとたくさん。世界のいろんなところに彼がいるんです。もう全部忘れたいのに。思い出しちゃう」
泣き出しそうな顔で、彼女は笑う。幼い子どものように無防備な顔をしている。
「それなのに、彼はきっと私のことなんてすぐ忘れるんです。だって、私は彼に何も話さなかったから。ずるいですよね」
友達が私に変わっていた。それでも俺は口を挟まなかったし、きっと彼女も、もうどうでもいいのだろう。
「だから、誰かに私の話を聞いてもらおうと思ったんです。誰でもいい。私のことを知ってほしかった。覚えていてほしかった。彼の代わりに」
「それでマッチングアプリなんて使ったってわけか」
「だって、こんな話、知り合いにはできないでしょう。ものすごく大切な人か、ものすごくどうでもいい人にしか話せませんよ」
「それは言えてる」
ハイボールの氷が、カラリと音を立てる。こちらの話も聞こえているはずなのに、バーテンダーは顔色ひとつ変えずにグラスを磨いていた。昨日の女子高生にも見習ってほしいもんだ、と心の中で呟く。
彼女が話を聞いてほしかった理由は、その男へのちょっとした復讐だったのかもしれない。話し終えた彼女の顔はすっきりしていた。けれど、最初に感じた諦めのような印象は消えていなかった。その顔は俺をなぜか苛立たせた。
「俺の同僚にさ、最近できた恋人に弁当作ってもらうのを期待しながらコンビニ弁当食ってる奴がいるんだけどさ」
「なんですか、急に」
「まあまあ。そいつが言うには、人と人の繋がりってのは言葉を使わなくちゃいけない。だから話を聞くときは全身全霊。話すときも全身全霊。聞く方も話す方も、どっちかがサボってちゃ大事なものが抜け落ちていくんだよって」
袖のシミを拭いながら岡島はそんなことを言った。あいつから出てきたとは思えない言葉だった。案外、弁当を作ってくれない彼女は、男を見る目があるのかもしれない。
「彼は君の話を聞かなかったんだろう? だったら君と彼は繋がってなんかなかったんだよ。彼も大事なことを、最後まで話さなかったんだし」
ユリが小首を傾げる。ああもう、俺は何を言っているんだ。ぐいとハイボールを一気にあおると、ユリの目を見つめた。
「俺は、君に聞いてほしいと思ってる。俺の話を」
話を聞いてほしいと願ったってことは、君だって誰かと繋がりたいと思ったんだろう。俺だって同じだ。
「俺は君のことを忘れないよ。でも、君は俺のことを忘れちゃうかもしれない。だって俺の話を聞いてないんだから」
眼鏡の奥でユリの瞳が揺れた。ユリに貼り付いたままの諦めを拭い去りたいと思った。だから——。
「お飲み物はいかがですか」