岡島の箸から、唐揚げが滑り落ちる。茶色の大根おろしソースがびちゃっと跳ねて、岡島のシャツの袖に小さなシミを作った。
「お、やべやべ。んで、なんだっけ。話をきいてもらいたいとき?」
「いや、もういい」
コンビニのお手ふきでソースのシミを必死で拭っている岡島が、答えを知っているとは思えなかった
「今日もファミレスにしますか?」
落ち合ったユリが俺に聞く。
「いや、今日も場所を変えるよ。俺が決めていいかな」
ユリはこくりと肯いて、俺の後をついてきた。ただ、俺が駅前のホテルの前で足を止めたときは、さすがに警戒するような表情を浮かべた。
「別に部屋なんか取ってないよ。行き先はここのバー」
「そうですか」
いつも血の気のないユリの頬がかすかに赤くなった。
ロビーを通ると、ぴしりと制服を着た従業員がにこやかに俺たちに挨拶をする。
エレベーターに向かうと、ちょうど扉が閉まるところだった。あ、と思った瞬間、再び扉が開いた。中の男性が「開」のボタンを押してくれたらしい。どうも、と軽く頭を下げて乗り込む。
俺は、ホテルという空間が好きだった。見ず知らずの人間たちが集っているのに、どこか仲間意識がある。適度な距離感、適度な気使い、適度な冷たさ。プライベートとパブリックが絶妙に混ざり合うこの空間は、自然と背筋が伸びるのと同時に肩の力が抜けて、とても居心地がいい。
俺とユリみたいな互いの素性を知らないもの同士でも、このホテルという空間では後ろめたさを感じずに済んだ。
時間が早いせいか、バーには俺たち以外の客はいなかった。
俺はハイボール、ユリはカンパリソーダを頼んだ。二人の間には、四角いガラスの中で灯るキャンドル。その揺らめく光に照らされたユリの横顔を眺めながら、俺はそっとクマのぬいぐるみを取り出して、そのキャンドルの側に置いた。彼女は、流れるように動くバーテンダーの手元を興味深そうに見つめている。
飲み物が届けられ、俺たちは乾杯をするでもなく、互いに一口飲んだ。ふっと身体が緩むような感覚を覚える。ユリの表情も、昨日までと比べて柔らかくなった気がした。
「で、今日はどんな話?」
ユリは迷うように視線を漂わせた。
「これは、私の——その、友達の話です」
嘘だ、と思ったが、口には出さなかった。
「地味な子なんです。オシャレとかよく分からないし、恋愛もほとんどしたことなくて。そんな子が、ある日仕事で知り合った人に声を掛けられて、好きだって言われたんです。初めてだったから、舞い上がっちゃったんでしょうね。すぐに本気になって。プレゼントされたマニキュアとか、出張先で買ってきてくれたお土産のキーホルダーなんかを大事にしてるんです」
彼女の指先のボルドー、黒い鞄につけられたリンゴのキーホルダー。色彩の乏しい彼女を彩る、唯一のもの。
「彼はよく喋る人でした。話もとってもうまくて、友達は、その話を聞くのがとっても幸せだったんです。でも、一年もすると、だんだん連絡が来なくなりました。そしたら、ある日言われたんです。実は奥さんがいるんだって。よくある話ですよね。でもまさか、その張本人になるなんて思ってもみなかったんです」