指先は、今日もボルドーに染められている。その赤は、白いカップによく映えた。
「私が三年生のとき、部員はものすごく減っていました。多分、三十人もいなかったんじゃないかな。しかも、ほとんどが幽霊部員だから実際はもっと少なかったんです。それで、私にも役が回ってきました。主役じゃなかったけど、その次くらいに重要な役。私もそんなに熱心な部員じゃなかったけど、やっぱり人前でやるからには恥をかきたくなくて。一生懸命練習しました」
コーヒーを一口飲んで思わず顔をしかめる。「レイン」とは比べものにならない。もっとも、比べるべきものではないのだろうけど。
ドリンクバーのコーナーから「お前、マジふざけんなよぉ」という声が聞こえた。無茶苦茶に混ぜ合わせたらしいジュースを回し飲みしている男子高生たちが大声で笑っていた。
「本番では、眼鏡を外して、髪を下ろして、花柄のワンピースを着ました。少しヒールのある靴を履いて、とっても歩きにくかった。舞台に上がるとスポットライトが当たって、最初の台詞を言いました。「いったい何があったのかしら。分からない。まだ、分からない」って。ライトが眩しくて、生徒たちが座っている方の様子はよく見えなかったんですけど、小さな声が聞こえたんです。「あれ、誰?」って」
ユリは目を細めて笑う。その視線の先にあるのは、コーヒーに映る自分か、それともかつての自分か。
「びっくりしました。だって、その瞬間、私は私じゃなくなった気がしたんです。物語の中の——たしか、名前はエリコ。そう、完全にエリコになってしまったような。終わりまであっという間でした。気が付けば、劇は終わっていて、私はまた私に戻っていました。でも、ほんの少しだけエリコが残っていて」
ユリがふっと顔を上げた。目が合う。眼鏡の奥の視線には、想像以上に意思が宿っていた。その強さに、思わずたじろいでしまう。慌てて目を逸らして、テーブルの隅のクマを指先で弄ぶ。
「私、落ち込んだときとか嫌なことがあったときに、あの台詞を言うんです。「いったい何があったのかしら。分からない。まだ、分からない」って。今でもまだ、私のどこかにエリコが残ってるのかもしれませんね」
明日の待ち合わせをして、自分の分の支払いを済ませると、ユリはファミレスを出て行った。残された俺は、テーブルの上のクマをぼんやりと見つめていた。
「シューキョーのカンユーとか?」
「えー、やばくなーい?」
隣のテーブルの女子高生たちがチラチラと俺の方を見て、そんな会話をしている。
こちらの話が聞こえてしまったらしい。好奇の視線が痛い。勝手に聞き耳を立てておいて、ずけずけと入り込んでくるとは何事だ、と八つ当たり気味に思う。
クマを鞄に放り込んで、俺は席を立った。背後で、きゃあきゃあと甲高い声が上がった。
今日はユリの話を聞く最後の日だ。いったい彼女はどんな話をするんだろう。
「おい、どうした? ずいぶん難しい顔して」
相変わらずコンビニ弁当をつついている岡島が声を掛けてきた。彼女の弁当はどうしたんだよ、と胸の中でツッコみながら「別に」と答える。
「悩みごとなら聞いてやるぞ。なんせ俺はいま充実しているからな」
「人に話を聞いてもらいたいのって、どういうときだ?」
「あ?」