「土曜日、両親学級を予約してあるの。父親になる気があるなら参加して。その勇気がないなら、私たちの前から永遠に消えて頂戴」
『私』ではなく、『私たち』と確かに言われた。その『私たち』の中に加わるべきか否か、明夫は考えあぐねていた。
「夕食会場へは、十七時二十八分までに必ずお越し下さい」
チェックイン時の奇妙な説明を思い出し、飛悠は時刻よりも早目に部屋のドアを開けた。同時に、隣部屋もその隣部屋もドアが開いた。
思わず部屋に戻ろうとした飛悠だったが、やめた。隣部屋の女性も、その隣部屋の男性も、心ここに在らずの表情が、自分そっくりに見えたからだ。
無言のまま、揃ってエレベータまで進み、一緒に乗り込む。歩く速度も歩幅も似ていて、飛悠は不思議な連帯感を感じつつあった。
「三名様ですね」
最上階のレストラン入口で店員に確認されたが、もはや確認というよりも形式的な挨拶に聞こえた。
三人は同時に顔を見合わせ、そして、瞬時に悟った。お互いが、誰か話し相手を必要としていることを。
揃って頷くのを確認すると、店員は満足そうにテーブルまで案内してくれた。
「眺めの良い席がございます」
山や湖があるわけでもないし、高層ビルが立ち並んでいるわけでもない。これといった特徴のない街なのに、その席は、本当に眺めが良かった。
住宅、保育園、学校、公園、スーパー、病院、墓地、そして、大学キャンパス。
人生の縮図が、そこにはあった。普段なら気にも留めずに通り過ぎるはずの街並みが、飛悠の心に残った。ここから見たら、人間一人ひとりなんて、判別できないほど小さい。とてつもなく大きい自分の悩みも、他人が見たら、砂粒ほどにちっぽけなものなのかもしれない。
十七時二十八分。ぴったりの時刻に日が沈み、店内の照明が明るく灯された。夕食の時間が始まるらしい。
飛悠が景色に見惚れているうちに、大人ふたりで注文を済ませてくれていた。
もう逃げられない。そんなことを考えながら、飛悠はテーブルに向き直った。
「初めまして」
口火を切ったのは女性だった。真美、と名乗るその人は、どこか寂しそうな瞳をしていた。
「宜しくお願いします」
明夫、と名乗った男性は、知的な笑顔の中に、物憂げな表情が隠れ見えた。
「は、初めまして。宜しくお願いします」
言えた。挨拶ができただけで、飛悠は大役を果たしたような、リラックスした気分になってきた。
「大学受験で来ています」
ふたりの表情がサッと変わった。余計なことを口走ってしまっただろうか。けれど、飛悠は敢えて続けた。続けなければいけない気がした。
「すぐそこの、A大学です」
一瞬の沈黙が流れた。
「じゃあ君は、遠くから来たのかい」
明夫は、懐かしそうな瞳をしていた。
「そうでもないのです、ただ」
「ただ?」
「何となく」
ふたりの顔に、明らかな失望の色が見えた。
それは、飛悠が最も苦手とするものだった。幼少時に兄を亡くして以来、両親の期待は飛悠ひとりに注がれた。その鬼気迫る感情を裏切ることは、飛悠には到底、無理なことであった。お兄ちゃんさえ生きていれば。心の中で何度、呟いたことだろう。