受験前日となった今日。最高潮に達した焦りと苛立ちをボストンバッグに詰め込んで、真美は家を飛び出した。息子が無事に明日を迎えるまでホテルに籠城し、自らはそのまま仕事場へ直行するつもりだ。
偶然にも、明日の仕事場と受験会場が至近距離にあるが、それさえも忘れてホテル泊を満喫しなければ、と自分に言い聞かせる。
シャワーを済ませ、浴室から出た。クローゼットにあるはずのバスローブを探しながら、ふと、室内の鏡を見る。自分の裸体を見るなんて何年振りだろう、と真美は思う。
母親となってからずっと短くしている髪。短大時代に自慢だったウエストのくびれは、よく見るとまだ面影が残っている。バストとヒップも、辛うじて下を向いてはいない。
鏡に向かって、微笑んでみる。あらいやだ、なんて年齢相応の声が出そうになった。覚悟していた以上に増殖している皺が、真美を現実に引き戻した。
全く、何を期待していたのだろう。真美はおとなしくバスローブを羽織り、ベッドに進んだ。ほどよい弾力のあるマットレスに、ふかふかの羽毛布団。
あまりの快適さに、若干の居心地悪さを感じる。普段、自分のことなど後回しの真美は、寝心地など追求したことはない。今夜、このベッドで寝付けるだろうか、と本気で心配になった。
三〇三号室では、明夫が午睡から目覚めていた。
こんなに熟睡したのは何カ月振りだろう。
何年も暮らしたこの街に、新しいホテルがオープンした。オープン記念にと配布された割引券を手に、明夫は束の間の安らぎを求めてやって来たのだ。
眠れぬ日々に悩んでいたはずなのに。ただ場所が変わっただけで安眠できる己に気付き、明夫は頭を掻いた。
「赤ちゃんができたの」
交際中の彼女に打ち明けられてからというもの、安眠するどころか、生きた心地がしない日々を過ごしていた。
子どもの父親になる。そんなこと、明夫は想像したこともなかった。父親のいない家庭で育ち、母親に迷惑を掛けたくないばかりに、いつも必死で勉強してきたのだ。
第一志望の国立大学に受かり、奨学金を受給して院まで進み、やっとこの春、就職する段取りになっていた。
彼女と出逢ったのは、運命ではなかった。アルバイト先の塾で、受付をしていた女性。地味で質素で、シフトが重なっているのかそうでないのかなんて、少しも気にもならない相手だった。
「いつも同じ出勤日になるようにしているの」
そんな告白をされても、明夫は有頂天にはならなかった。だが、メガネを外した彼女の笑顔や、お喋りになると手を頬に当てる癖は、自分だけの秘密にしてもいいかな、と思えるまでになっていた。
けれど、である。結婚さえもすっ飛ばして、いきなり父親になるなんて。何もかも計画通りに生きてきた明夫にとっては、晴天の霹靂であった。
「本当に俺の子か?」
言ってはいけない台詞を、酔ったせいにして投げつけた。しかし驚いたことには、彼女は泣きも怒りもせず、ゆっくりと微笑んでみせたのだ。
すっかり母親の顔になってしまった彼女は、明夫に最後通牒を突き付けた。