「帰りの交通費ぐらいあるんでしょ」
「いえ、これが最後のチャンスだと思って、ここに来る前に銀行から貯金を全額おろして、二ヵ月分の家賃の振り込みと新幹線の交通費とホテルの宿泊代を家族三人分と、観光で京都にきた両親のために料亭のフルコースを前払いで予約しちゃったので残りはえーと、二百五十円とテレホンカードですね」
「……あんた、何者なのよ」
「脚本家志望です」
麻衣はイラつき、顔をそむけた。騒いだせいか周りの客はいなかった。
聡はティッシュを取り、鼻水をかむと今度は泣きそうな顔をしていた。
どうやら情緒が不安定なようだ。
これ以上、関わらないほうがいいな、といった様子で麻衣は水色の封筒をバッグにしまった。
「いつか、なりたいんです」
聡は潤んだ目で前を見つめた。
「誰かの心に響くような物語を書いてみたい。人々に元気や勇気を与えたり、ときにはビックリさせたりして驚かせてみたいんです。たまに笑わせたりもしたいですし……」
「多いわよ。一個にしなさい」
「とにかく、読んでくれた人が笑って勇気づけられて元気になってもらいたい。それができれば、僕は合格かなと勝手に思っています。でも現実はそう、うまくはいきませんでした」
麻衣はふと、テーブルにある鉛筆が気になった。赤文字で『合格祈願』と刻まれている。
「使い古した鉛筆ね。それ愛用品?」
「これは中学の受験のときから同じ種類のものを使ってるんです。実家にいっぱいあるんですよ。昔、父が持っていたものなんですけど、これを使って僕も大学を合格したので……お守りみたいなものです」
麻衣は鉛筆を手に取り、彼に渡した。
「じゃあ、何でそこに置くのよ。物書きだったら鉛筆は常に持ってなきゃ。お父さんから譲ってもらった大切なものなんでしょ?」
聡は薄汚れた鉛筆を受け取ったが、どこか不満げな表情だった。
「僕は……脚本家には向いていないと思います」
聡は雨で濡れた窓に目を向ける。
「才能がないことは自分でも自覚しています。才能があったら……こんなに沢山失敗しないですからね」
雨音が一層強くなり、本降りとなってきた。
「結局、この脚本も無駄になってしまいました。こんなものがあるから僕は……こんな、もの……」
聡は茶封筒を手に、ゆっくりと破いていく。麻衣は止めようとしたが遅かった。破かれた紙きれはテーブルの上にひらりと落ちた。
「今日が最後のチャンスだと決めていたんです。僕はそれすら見つけることができなかった……本当に、悔しいです」
彼は、降りしきる雨を見つめながら泣いていた。自分の失敗だらけの人生を思い返し、そして無理やり自分自身に納得させようと頷いたのだ。
「好きだったらやればいいじゃない」
麻衣は立ち上がって彼に言った。
「私だって今の仕事が向いてるかどうかなんてわからない。でも、そんなことに悩んでたら一歩も先に進まないわよ。脚本を作る人が何も経験しないで、おもしろい物語が書けるとでも思ってるの? 人生は紆余曲折あるからおもしろいんじゃない。甘ったれたこと言ってるんじゃないわよ」