「父、このホテルのオープン時からのベルボーイでした。レプリカつくってあったんですね。制服は父が亡くなったときにいただいていましたから」
「なるほど」
「この喫茶店のところに、父は立っていたんです」
「そうだったんですか」
「わたしは、父が仕事をしている姿を見るのが好きでした。よく表通りから隠れて眺めていたんです。その名の由来のようにベルが鳴って飛んでくるように、父はあっちこっちとフロア内を飛びまわっていました。荷物を持って、部屋まで案内して、エレベーターに入れないときは、階段を駆け上がって」
「すごいなあ」
「はい。父の笑顔目当てに来るお客さんもいたほどです」
「へえ~」
「ちまたでは、伝説のベルボーイと呼ばれてて」
「大先輩に会ってみたいな」
わたしのその言葉に、彼女の顔がわずかに翳った。
「会ってほしかったです。父は五年前に、病気で」
「それは、申し訳ない言い方をしてしまって」
「いえいえ」
わたしは、コーヒーをひとくち飲んだ。
「最初」と彼女は小さな声でいった。
「うん」
「最初、幼い頃に見てた父がいるのかと思って」
「ああ」
「体格も、そっくりでしたし」
「そう」
「それからは、なにか、父と一緒に仕事してるようで」
「うん」
「夢が、叶ったように思えて」
「それはよかった。ホテルも、お父さんの制服をレプリカとして大事にとっておいたんだね。そんな大事な制服を、わざわざ僕なんかに……こんな僕でも、役立つことがあったんだね」
「役立つだなんて。わたし知ってます。武藤さんがどんなにすごい人だったかって」
「すごくないよ」
「すごいですよ。ホテルの人たちみんな、そういってますもん」
「そうなの?」
「ええ」
「微塵も感じないなあ」
彼女は可笑しかったようで、ケラケラと笑った。
「うそうそ」とわたしは自分の発言をフォローした。
「ああそうだ、聞きたかったんです。あのキャッチコピー」と彼女が聞いた。
「なんだろう」
「飲めば、ノーベンバー」
「やっぱり」
「意味ありますよね」
「実は、あるよ」
「教えてもらえます?その意味」
「いいけど」
「大事ですよね、キャッチコピー。わたし映画はたいていキャッチコピーで決めてますもん。あの映画の『愛に、逆らえない。』は最高でした。あのキャッチコピーがなかったら、観なかったかもしれませんもん。武藤さん、もしよかったら、是非このホテルのキャッチコピーも考えてくださいね」
「考えるだけはね」
「もしかして、もう考えてたりします?」
「癖でね」
「聞きたいです」
「まだコンセプト段階だけど」
「はい」
「チューニングホテル」
「チューニングホテル」
「うん。ピアノから発想した」
「心の調律ですね」
「そう。音律って、わかるかな?」
「オンリツ……聞いたことはありますけど、意味はちょっと」
「うん。まあ簡単にいうと、音楽で使用するすべての音の関係は、ある原理によって決められていることを音律っていうんだけどね」
「はい」