ベルボーイの朝はゆっくりだ。
系列のシティホテルに異動させられて二日目。まさか三十九歳にして新米ベルボーイになるとは思わなかった。まあそれも仕方ない。なにしろとんでもないミスをやらかして、会社に多大な損害をあたえてしまったのだから。どんな?ええ、それがですね。と、話せるほど、まだ傷は癒えていない。いつかなにかの歌詞のように、笑いながら話せる日がくればいいのだが。そのときに、きっと、話せると思う。そう、笑って。いま話したら、おそらく泣きながらになってしまうからご勘弁を。
さて、スマホの軽やかな目覚まし音で起きると、まずはバスルームで熱いシャワーを浴びてカラダを起こす。いままでみたいに寝ぐせがついたままの髪では仕事にならない。入念に石鹸でカラダのすみずみまで洗い、髪もシャンプーする。毎日洗いたてのバスタオルを用意し、ドライヤーで髪を乾かす。整髪料で髪を決めたら、フランスの俳優の名のコロンをつける。朝食は、ハムとスライスチーズをのせた食パンと、インスタントスープで済ます。シワのないスーツに着替えたら、路線バスに乗って、ホテルまで。従業員通用口から入り、更衣室で真新しい制服に袖を通して、いざフロアへ。フロントの青年スタッフに挨拶する。
「おはようございます」
「おはようございます」
彼の名前は五郎丸。ラグビーの彼とは親戚ではないです、とわたしが聞くよりも早くそういった。そんな会話ではじまったふたりの関係。わたしはホテルマンとしては新米なので、ホテルのスタッフはみんな先輩にあたる。五郎丸先輩はホテルマンになってかれこれ五年が経つらしい。フロントスタッフのなかでも彼がいちばん話しかけてくれる。
かつてはミドルクラスのシティホテルだったこのホテルも、有名ホテルの進出や時代の流れもあってエコノミー、さらにはバジェットクラスへとそのスタイルを変えていた。オープン当時のその名残りは広々としたロビーに見ることができた。通りに面したラウンジには自動演奏のグランドピアノが置かれており、フロアの全体に心地よいメロディーが流れている。そして特徴的なのは、ロビーの一角にガラス張りの小さな喫茶店があることだった。
リーズナブルな料金になったこのホテルにベルボーイは必要ないことは初日でわかった。わたしが配属される空きがどこにもないようで、無理やりあてがわれたのがベルボーイだったと思われる。だいたいベルボーイって。三十九歳の新米ベルボーイって。わたしを迎えたホテルの人たちはたぶんそう思ったことだろう。まあ、はっきりそう口に出していったのは東京に残っている妻と娘だけだったが。
「島流しにしては、いいじゃない」
社宅として借りている高台のマンションのベランダからの景色を眺めながら、妻はそういった。
「こっちにくればいいじゃないか」
隣でわたしはすかさずそういってみた。
「ゆりあはどうするの?そうなればそうで、またいろいろと面倒じゃない」
わたしの期待はあえなく消え失せた。
「それに」
「それに?」
「どうせ一年、もたないわよ」