「辞めないさ。迷惑をかけたんだから自分からは辞めない」
「辞めてほしいからじゃないの、ベルボーイなんか」
「なんかって」
「そうかんたんにできる仕事なんかじゃないでしょ、って意味よ」
「ああ」
妻はわたしの「ああ」のそのあとの言葉を待っていたようだが、ないので部屋へと戻って行った。
「武藤さんって、グラフィックデザイナーだったんですよね?」
チェックアウト時間が終わってから、五郎丸先輩がとことことフロントから出て来て、わたしに近寄って聞く。
「そう」
わたしは定位置のフロント近くに立っていて答える。
「花形じゃないですか?」
「そうでもないけど」
「あこがれですよ。あれでしょ、キャッチコピーとか考える」
「まあね」
「どんなのがあるんですか?」
「キャッチコピー興味あるの?」
「まあ、公募ガイドとかで募集してるじゃないですか?賞金もいいんで、けっこう好きで出したりしてるんですよ」
「へえ~」
「ぜんぜんダメなんですけどね」
「そうなんだ」
「教えてくださいよ、どんなのつくったんですか?」
「そうだね……あれ知ってる?」
「なんでしょう」
わたしはスポーツドリンクの名前をいった。
「知ってます。えっ、あれ武藤さんですか?『飲めば、ノーベンバー』」
「そうだよ」
「すげえ!いや実際、最初意味わからなかったんですけど、正直いまもわかりませんけど、なんかじわじわ来てたの覚えてますよ」
「そういう時代だったんだよ」
「時代ですか」
「モードっていうかね」
「なるほど、その気分を捉えてたんですね。深いんですね、キャッチコピーって」
ラウンジにはちらほら人が見え始めていた。待ち合わせ、時間潰し、チェック時間前後の待機と、ラウンジにはさまざな目的の人たちが訪れる。ホテルの雰囲気を味わってもらうための重要な場所だと、初日に支配人から教わった。
彼はフロントに戻った。わたしはあらためて姿勢を正す。わたしは、なにもしなくていいといわれている。挨拶するぐらいで、余計なことはしなくていいですと支配人にそういわれている。チェックアウト終了の朝十時から、チェックインが始まる午後三時まで。つまりはベルボーイの仕事はしなくていいということだ。だから、そのとおりにする。ただ立っていて、挨拶するだけ。ラウンジ、フロント、そしてわたしという位置だから、声をかけられることもない。ホテルマンとしての教育などまるで受けていないわたしが、余計なことをして余計な仕事を増してもらいたくはないという考えはその通りで、だからわたしは余計なことは一切しなかった。ラウンジにいる人たちから見れば、わたしはベルボーイの格好をした警備員に見えたかもしれない。初日は何事もなく無事に終わったが、とはいってもなにが起こるかわからないから、一応ホテルの設備については頭に入れてある。ホテルのまわりの道順もあらかじめ初日の勤務前の数日間で歩きまわって頭に叩き込んだ。なにか聞かれてわからなければフロントに投げていいですからとも支配人から重ねていわれている。まあ、上からの命令でお荷物を押しつけられたのだから支配人も頭が痛いところだと思う。