「ここはね、分かりやすく、足りないものが多い。でも足りないっていうのも、まぁ、面白いもので。スタンプラリーのように、もう画像で見た観光地を回らなきゃという圧力もなし。自分勝手に意味を探せばいい、それが散歩なんです」
「私がここで、見つけたものです」と愉快に笑う。
「あ、ここを右に」
赤い橋の中腹に来ると、老人は杖を持って立ち上がった。
「ほら、ここの景色、なかなかいいでしょう。写真でも撮りましょうか」
そういって、老人は赤いカメラふらつきながら手に取る。
川の波と、寂しげに散らばる苔の生えた岩。
軽快な音の後、じぃーと、フィルムが出てくる。
「中々、いい男に写っているじゃありませんか」
そろそろ戻りますか、そういって老人は、ここを左、と指をさした。
「凍れるねぇ」
ガラガラと音を立てて、扉を閉める。
「ありがとうございました」
老人が神妙な顔で頭を下げる。男も「こちらこそ」と頭を下げる。
「温泉でも入ってきたらよろしいかと」
ギシギシと音が鳴る廊下を歩いてると、昨日部屋を掃除していた少女が部屋の前をうろうろしていた。
「あ、やっと帰ってきた」
こっちこっち、と手を引かれる。
「あ、今から温泉にでも入ろうと……」
「ちょうど困ったことがあって」
引きずられるように連れていかれた部屋に、一つのベッドにパソコンを囲んで、老人が何人か集まっている。
「捕まえました」
「いやぁ、ご足労を」
こちらへこちらへ、と老人の手招きされるがままに、椅子に座らされる。
「これね、うちのホームページなんだけど」
パソコンを向けられると、「超寿園」と書かれたホームページが表示されている。
「ほら、ここ、なんか文字ばけしてるんだよ」
説明部分の文字が、よくわからない記号のようになっていた。
「ほら、あんた、デジタル関係の仕事なんだろ、ちょっと直してくれない?」
これ食べる?と渡されたのはミカンだ。
「ちょっと、借りていいですか?」
どうぞどうぞ、とばかりパソコンの画面を向けられる。
問題を提示されると解きたくなるのが人間の性だ。
裏側を見ると、コードがうまく反映できていないだけのようだ。ほんの数分で戻せた。
「おぉ」
と老人がどよめく。男がちょっと照れたように頷く。
「あとさ、ここの予約の部分をもう少しボタンを大きくしたいのだけど」
「ここの画像も古くなったから変えたいのだよね」
はしゃいだ声を上げて、際限なく要望が飛んでくる。
「メモメモ」
手書きで、男の話した言葉が文字になってノートに踊る。ちょっと手が震えているけれど、一生懸命刻むように書く。
「早い」
と怒られるのでゆっくり目に話す。
「書いて」
とせっつかれ、よれた文字に男の文字が重なる。
あっという間に時間が経ち、外を見れば夜になっていた。
「いやぁ、ずっと気になってたんだよ」
「ありがとうね、先生」
ここに来てから、ありがとうに出喰わしがちな気がする。
「いえいえ、暇ですから」
そんなことはないのになぁ、休みに来たのになぁ。
なのに、暇なんて言葉が勝手にこぼれ落ちて行ったのは、何故だろうか。
「今日が最終日で、明日の朝チェックアウトですよね?」
「あ、はい」
「そしたら、スペシャルコースにご案内しますね」
スペシャルコース?
様々な謎が浮かぶが、女将は一人、足取り軽く進んでいってしまう。
「どうぞ、ごゆっくり」
女将の背後には、足風呂と暖炉の火が浮かんでいた。
先客なのか、もう一人、男の背中が見える。
空いていた椅子に腰掛けた。
上質そうな革の感触が、背中を伝う。
サイドテーブルには、艶々と光る珍味と一升瓶。
「どうです?」
ゆらゆらと揺れる火。
先に座っていた男の横顔がちらちらと見え隠れする。
つり目と髪型で猫のように見える。猫背もあるか。歳は若いようにも、年老いているようにも見える。
「お客さんは、何も知らずにここに来ちゃったのでしょう」
唐突に柔らかな声が、男の耳元に届く。
手渡されたお猪口に、さらさらと日本酒が流れ込んでいく。
「ここは、僕自身もね、なんて言ったら難しいのですよ」
おろおろと掴めないながらも、お猪口を傾ける。