もはやその光景も馴染んで気にならなくなってくるから、人は不思議だ。
また、昨日食事を運んでくれた老婆が、お盆を車椅子で持ってくる。
「あい、朝ごはん」
「あ、どうも」
目玉焼きに、魚に、と、素朴な味に実家の朝ごはんを思い出す。
食べていると、昨日の女将がやってきた。
日の光は、首筋に細かいシワが浮き出している。
この人も実は結構歳がいってそうだ。
「今日の予定は?」
「いやぁ、一日中ゆっくりしようかと」
「そしたら、近くの散歩なんてどうですか?無料ガイドが付いていますよ」
女将が嬉しそうに言う。
「ここらへんは、ほら雪が綺麗で」
男は車椅子を押しながら、なぜか老人の独り言のような話を聞いている。
「今日は綺麗に晴れたね」
「あれは、何年前だったかな、渋谷のハロウィンはすごくて」
河岸は寒く、川の土が出ているところに寂しげに雪が降り積もっている。
「どうだい?楽しいかい?」
「あ、はい」
バンドで結った白髪の髪を揺らして、振り向く。。
「人生は」
思ったよりも深い問いだった。
無料ガイドが受けられると聞いて玄関で待っていると、時間に来たのは車椅子を漕いだ老人だった。
まぁ、一緒のガイドで回るのだろうと思っていたら、「もうそろそろ行きますか」と声をかけてきたのは老人だった。
よく見たら、小さな旗が車椅子に刺さっている。
外の道は少し凍っていて、車椅子には難儀しそうだ。
「押しましょうか?」
と恐る恐る前に進む小さな背中に声をかけると、老人は「ありがとう」と嬉しそうににっこり笑った。
「お客さんはどこから来られたのですか?」
車椅子を押す男に、老人。これでは無料ガイドではなく、こちら側がガイドしているようなものだ。
「東京から」
「それは遠くにきたものですね。私も昔は東京に住んでおりました」
老人はどこか遠くを眺めている。
「あの頃は仕事三昧でね。いつのまにか、こんな体になってしまっていて、気づいたらこんな電波も届かない山奥にいましたよ」
ため息混じりに老人が笑う。
「そういえば、今はわからないのだけど昔は、散歩なんてものはなくてね。移動しかなかったんです」
「移動ですか?」
ざぁーと流れる川の音に掻き消されるぐらいには小さな声。
音量をあげることもできず、男はじっと老人に耳をすませる。
「そう、用事があって、移動がある。それだけ」
カラカラと、歯車が回転する音。
「この歳になってね、やっと散歩の難しさがわかってきたところなんですよ」
「散歩の難しさ、ですか?」
「そうそう」
スイッチが入ったように、老人の口が滑らかに動き出す。
「誰もが自分の意思ってのは、信念ってのは、というのを持たなくてはいけなくてね。ビジョンがどうだ、なんだって。更に、どんどん物事が進んでいくから、こりゃいかん。この早さに付いていくには、自分も何か持たないとって」
「もう色々なものが変わる。人も変わるし、基準も変わる。そういった中で僕らは何かに意地があるようで、何にも意地なんてなかったことに気づいたんです」
一方的に噛み合わない会話が続く。
淡々と車椅子を押していくと、弱い風が肌を撫でた。
「気づいたらね、みんなが一緒にいるようでいなかったんですよ」
色あせた看板に、蔓が巻く。道路の脇に散らかる落ち葉。