水のようなさっぱりした潤いが、喉に流れた。
「最初は、ただの老人施設だったんですよ」
そりゃ、平均年齢が高いはずだ。
「それから、温泉が欲しいっていうから、温泉を掘って」
「そしたら、金儲けできるじゃないかと、宿にして」
「気づいたら、ベッドに寝ていた老人も跳ね起きて従業員になっていて」
「僕もやや、混乱しているのですよ」
くくくっ、といたずらを見ている子供のように笑う。
淡々と語るリズムが、絵本の読み聞かせのようで心地が良い。
眠くなってくる。
「僕は元々、医者でしてね。今は白衣なんてほとんど着ませんが」
「体を長生きさせたいならね、ここの老人は無菌の部屋でチューブに繋いで、おとなしくさせておいた方が良いのですよ」
断片的に、重なり合っていく言葉達。
「でもね、そうすると心が枯れてしまうんです」
「体にいいことっていうのは、もちろんある一定は心にもいいことです。だけどね、それは必ず、ではないのです。体にいいことが、心にとって悪い働きをすることもある」
「長生きしたいなら、生殖を取ればいいですよ」
でもそれはロマンスに欠けるでしょう。
男は頷く。
「穏やかな革命を見ているみたいで」
「姥捨山と端っこに集められた人たちが、勝手に世界を作って。面白かったら勝手にみんなが遊びに来て、姥捨るような世界が消滅する。落ち込んだとて。人間、つらいことがあると被害者に変身して、それは加害者を作るだけ」
自分のいる場所が、さらにわからなくなる感覚。
「さすが、渋谷のハロウィンで騒いでいた世代は違う。全員、自分勝手なんですよ」
「あ、この料理にもね、ちゃんと名前があるんです。うまいから、残るんです」
良平さんのたこわさ、と優しく掲げる。
きっともう、良平さんはこの世にはいないのだろう。
「口うるさいし、面倒なのだけど、なぜか休まるんですよね」
本当の休みは、ただ家でぼんやりとしても体は休まらないもので。
だって、人はその世界に飽きて、息苦しくて、それで疲れちゃうんだから。
ちょっと面倒だけど、違う世界に入り込んだ方が。
睡眠が疲れを癒すのも、意外とそう言う理由かもしれませんね。
「注文が多いですね」
置かれたマッチで、たばこにゆっくりと火をつける。
となりの男は、はっきりした反応を示すことなく、微かに頬を緩めてただけだった。
「一人一人離れているけど、離れているからこそ、繋がり、星座になり、物語が生まれる。そうでしょう?」
隣の男がマッチを擦った。
焚き火の炎と、マッチに灯る弱い灯が重なる。
「まぁあいにく、ここにいる老人はだいたいボケているので、昨日のことなんてあんまり覚えていないですけど」
あ、そうそう。あの女性も女将役が初めてだったんですけど、とても楽しそうでした。
パチパチ暖炉の爆ぜる音で、ずんずんと夜が更けていく。
星々さえ、二人を温かく微笑むひととき。
「お会計は?」
「あぁ、ちょっと待ってくださいね」
女将が裏に回ると、がさごそ、荷物をまとめた男の前に筒を何個か持ってきた。
その筒には、
「美味しいものを食べたい」
「モテたい」
「人気者になりたい」
と若さ滴る妄想の類がズラッと並ぶ。
筒の中にはチラチラとお札が見えた。
「さぁ、願いにどんどんお金、入れちゃってください!」
男は考え込んで、何個かの筒にお金を入れた。
現金にちゃんと触る感覚なんて、そういえば久しぶりだ。
「毎度!もし懲りなければ、またどうぞ!」
元気よく、引き戸を開ける。
忙しい都会へと続く現実が、眼前に広がっていた。
雪吹く鬱々とした外の景色が、他人行儀な顔をしている。
「この宿はいいですね、ずっと住みたいぐらいに」
一歩が重い。
「お客さん、ここに浸っちゃダメだよ、広い世界を見て、逃げて、戦って。ここは時間が遅いんだ、気を抜くと淀んでしまうぐらいに」
女将が真剣な顔で言う。
「でも、また。さよなら」
一本の傘の後には、踏みしめられた足跡。
実は廃屋が一つ、なんて。
だが男は振り返らず、のしのしと家路へ向かう。
いつもより少し、深く息をしながら。