踊り場の窓からは校庭が見えていた。しずかな雨が降る中、そこには誰も居なかった。わたしたちが交わす言葉だけが、校舎のコンクリートの壁に反響しては消えていった。
「うん。がんばれ」
と、西野は笑って言った。
「人ごとと違うよ」
「あー、うん。間違えた、がんばろう」
「うん。がんばろう」
「うん」
わたしたちは頷きあって、そしてお互いに、しん、と急に黙り込んだ。
「……どうしたん?」
「なにが?」
「べつに……急に、黙るから」
「何にもない。寿司、食べに帰ってきてな。いつでも」
西野はまた笑って言った。でも、さっきよりも早口だった。早口のように思えた。それは気のせいに違いない、そうわたしは自分に言い聞かせて、生徒手帳をポケットの奥にねじ込んだ。
そうしてわたしはこの町で暮らすことを決めた。家も車もビルもたくさんある。昨日見に行って、ここにしようかな、と決めた学生向けのアパートの近くには、オシャレなカフェがあったし、店先の看板には「ショコラなんとか」とか「グラノーラなんとか」って、書いてあった。
窓ガラスにさらに近づいて、真下の通りをのぞき込む。
「かわいい」
わたしはそっと呟く。小さい女の子が駅の方角に向かって、歩いている。キャラメルみたいな色の制服を着ていて、帽子をかぶっている。私立の小学校の生徒なのか、ちいさいのに、こんな早くから電車に乗って学校へ行くのかな。
自転車を立ちこぎする男子高校生が、その女の子を追い越していった。朝練なのかもしれない。その自転車が向かう先の十字路を、若い女の人が横切った。黒いコートに黒い鞄を持った姿だったので、ちいさな赤いサブバッグが目立っていた。彼女とすれ違ったサラリーマンも、手袋をした手に中身が膨らんだ紙袋を持っている。おそらく、それらはお弁当だと思う。
みんな、この町に暮らす人たちなのだ。
仕事へ行くし、学校へ行くし、それからごはんを食べる。お弁当をつくる、あるいはつくってもらう。おかずは、卵焼きか、からあげか。ウインナーはタコさんかカニさんか。かぼちゃの煮付け、ブロッコリー。ナポリタン、コロッケ、いんげんをベーコンで巻いたやつ。それから、それとも……。
みるみると、わたしはおなかが空いてきた。
さっきまでおなかは縮こまっていたのに。少しずつ、この町が目覚めていくところを見ているうちに、この町で暮らす人の姿を、歩調を見ているうちに、わたしのからだは自動的に、生きていくことの準備を始めたがっているようだった。
サイドテーブルに置いておいた朝食チケットに手を伸ばすと、重ねて置いてあったホテルのメモパッドが床に落ちた。
ベッドの上を這うようにして身をかがめて、それを拾い上げる。ほんのり灰色がかっている紙には、青い印字でホテルの名前が書いてある。メモ用紙の表面に朝日があたった。そこを流れる光の中で、なにかがこまかく揺れ、きらっとまぶしく反射した。
顔を近づけ、用紙の表面をじっと見つめる。角度を変えて、朝日にもう一度よくよく当ててみる。
うっすらと、跡が見える。ペン先がすべっていった跡。このメモを前に使った人の筆跡が、下の用紙にまでうつっていたのだった。文字は所々とぎれているけれども、筆圧が強くかかったところをつなげて、想像する。「油としょうが」とか「大さじ2」とかが、見えてくる。それから、「フライパン」「香り立つまで」と見える。「片面2分」ともある。「さとう、しょうゆ、みりん」が、大きな括弧でくくってある。「汁気が半分」「煮からめる」……。
砂糖と醤油とみりんで、なにを煮るのだろう——。
ごろんとベッドに仰向けになり、光を求めてメモ帳を前後左右に動かしてみても、それはとうとう読み取ることが出来なかった。誰がこれを書いたんだろう。急にレシピを思い立ったんだろうか。それとも、テレビの料理番組を書きとめたんだろうか。