それはあまりにも、その年齢のわたし、あるいは、その年齢のわたしたちにとってはなまなましく、それはもう、ありありとしすぎた感触だったから、驚いたわたしの手はまごついた。受け取り損ねたお皿は、玄関先の地面にゆっくりゆっくり、落ちていった。ばしゃーん! と音を立ててお皿は割れ、海のにおいは、あたりに漂った甘辛いにおいにかき消された。
地面にはひとつのザクロと一緒に、たくさんのぶりの照り焼きが転がった。
「俺と違って勉強できるんやし、行った方がええよ、どこへでも」
階段の踊り場で、西野は言った。「しらん」と言っていたあのときの声とは全然違っていた。それは、声変わりをしたということだけではなかった。
「行った方が良いって、なんで分かるん? どこへでもって……そんな簡単なこと違うよ」
「なんでもあるやん。ここにないもんがあるとこは、いっぱいあるし」
西野はわたしの目を見ずに言った。階段の同じところばかりを、何度も箒で掃いていた。
「西野も行ってみたいんじゃないの? その、なんでもあるところへ」とは、わたしには言えなかった。
あの立派なのれんがかかっている家と、長年使ってへろへろになった玄関マットがひきっぱなしの家とじゃあ、見てきたものも、これから見ていくものも違うに決まっている。その言葉が西野を傷つけるかもしれないという予感に気づけるくらいには、わたしは大人に近づいていた。
そして、そう言いつつもわたしは、西野の言葉にすっかり傷ついていた。わたしにはその、なんでもあるところというのがどこだか分からないし、だからといって、西野のように守るべきものもなかった。
なあんにもない、からっぽのまんまで、行く先も分からない、果てがあるのかも分からない大海原に、放り出された気分だった。振り返ると、西野が、あの少年の頃の西野が、あのぶりの照り焼きを盛り付けたお皿を抱えて、こちらに手を振っている。その姿が、どんどんちいさくなっていく。寂しかった。とても。
「寒う、階段ってなんでこんな寒いんかな」
西野が箒の柄から右手を離し、グー、パー、と交互に繰り返す。
「どうしたん?」
「いや、手が……」
「え?」
「ちょっと割れた。指の関節のとこ、スゴい割れんねん。洗い物ばっかしてるから」
「だいじょうぶ?」
「なんでもないよ、こんなん」
「バンソーコー、あるよ」
「ええよ、キリないし」
「でも」
わたしがポケットに手を入れかけながら、じっと西野を見つめると、西野は少しためらって、「じゃあ……」と言った。
わたしはポケットから生徒手帳を出して、そのカバーの内側にはさみ込んでいた絆創膏を取り出し、西野に差し出した。
「ありがとう」と言って、西野は絆創膏のはしっこをつまんだ。
わたしたちの手は、あの日のように触れ合うことは、なかった。
西野は自分の手で、いつの間にか、ぐんぐんと大きくなった手で、絆創膏を巻き付けた。右手の中指の傷口に。あっという間だった。わたしはその、ほんの短い間にすべてを決めた。
「西野、わたし行くよ」
「ん?」
「大学受験して、ここじゃないどっかに、行くよ」
「……」
「家も車もビルも、オシャレなものがすぐに買いに行けるお店も、いっぱいあるとこへ。見たことないもん見て、したことないことを、する」