砂糖と醤油とみりん。海のにおい、甘酸っぱいにおい。あの日の玄関先に漂った、においを思った。
この文字を書きつけた人の、手を思った。
あの日の、お皿を抱えていたちいさく、やわらかい手を。それから、おおきくなって、傷だらけになった手を、思った。
すうっとこめかみに冷たさを感じた。涙がひとりでに流れ出していた。
「西野、ごめんね」
と、わたしは心の中で言った。ぶりの照り焼きをだめにして、ごめん。あの日、あのあとには、「急におなかが痛くなった」なんて、下手な言い訳をして部屋にこもって、ごめんね。恥ずかしくて、言えなかった。言えなかったけど、西野の手の感触が、くるまった布団の中でもずっとずっと残っていた。次の日には玄関先はすっかり綺麗に片付いていて、そのことについて西野と学校で話すことも、一度もなかったのだった。
「西野、ごめんね」
守るものも目指すものもある西野のことを、うらやんでごめんね。西野の抱える重圧や、これから越えていかなければならない壁のことなんて考えもしないで、勝手に西野に放り出された気分になって、ごめんね。絆創膏を、わたしが巻いてあげればよかった。いやがっても、してあげればよかった。あの傷だらけの手を、今度は離さないで、つつんであげれば、よかったなあ。
わたしは何度も繰り返した。メモ帳の表面を光に透かしながら、西野に謝りつづけた。あらたな暮らしへの不安と、あの町の甘やかさを思って、ベッドの上で泣きつづけた。涙は音を立てずにするすると、やわらかな枕に吸い込まれていった。
西野はあの町に残り、わたしはこれからこの町で暮らす。
しばらく泣いていたら、その事実がすとんと落ちてきて、しずかにわたしに馴染んでいった。
次第に涙は出なくなって、さらにおなかが減っていることに気づいた。のろのろと服を着替えたあとで、くしで髪をといて、涙の後を拭い、筆跡の残るメモ用紙を一枚ぴりっと切り離し、スカートのポケットに入れた。
この部屋にかつて泊まった人も、甘辛く煮たなにかを求めていたということがわたしを救った。だからこれはわたしのお守りにして、そして、新しいアパートでわたしは、ぶりの照り焼きをつくりたい。そう思った。
朝食チケットを握りしめ、ホテルの一室を出た。「おいしかったねー」と、高くて間延びした声が聞こえた。隣の601号室に、父親らしき男性と、少年が入っていった。ドアノブを握る少年の右手の中指に、絆創膏が巻かれているのがちらりと見えた。