「なんですか?」と三ツ矢さん。
「経営が行き詰まってしまってな……」と社長。
「だからどうしたんですか?」
三ツ矢さんはしばらく社長を凝視した後に、初めて手前に立つ男の顔を見た。
「あんた誰だ?」
「債権者だよ」と男は言い放った。
「ん? 街宣車?」と三ツ矢さんは耳をほじりながら言うと男の顔は真っ赤になった。
「昔ながらの職人さんだかなんだか知らないですけどね、こっちも仕事なんですよ。もうこの工場の全ての資産は私たちが押さえたんで、今日までの給料をあの社長さんに貰って帰ってくれませんかね?」
三ツ矢さんは振り返り、僕ら工員の顔をしばらく見つめた。誰よりも年上なのに、誰よりも濁りのない瞳をしていた。
そして「帰るのはあんただ」と静かに呟いた。
「え?」と男は返した。
「いいか小僧よく聞け、帰るのはあんただ」
再びそう言うと三ツ矢さんはテーブルに置いてあった缶コーヒーを口に含み男に向かって勢いよく吹き出した。
霧状になったコーヒーは男の顔もスーツもプライドも茶色く染めた。
「あ」
僕は声にならない声を出した。
社長はたるんだ瞼を見開いて、ますます昨晩観たゾンビのような顔になって狼狽えている。
「このジジイ……」
男は三ツ矢さんに掴みかかった。その男の頭を三ツ矢さんは缶で何度も叩いた。それを僕らが必死に止めた。
嗚呼
終わった。
僕は悟った。
経営面も何も知らないが、もう此処は終わってしまうんだ。せっかく見つけた仕事なのに3年で終演か、人生何があるか判らないな、次は何処で何をしたらいいんだ……
興奮している債権者の男を羽交い絞めにしながらそんな思いを巡らせていたその時、三ツ矢さんが口を開いた。
「アメフラシは“外敵”が来ると液体を吐くんだ。人の仕事の邪魔する奴は“外敵”だ。判ったらとっとと帰れ小僧」
三ツ矢さんは最後まで男から目を逸らさず右手に缶コーヒー、左手に油圧計を握りしめていた。
その姿は僕にとって圧倒的な存在で本物のアメフラシだった。
工場最期の日。
「これからどうします?」と僕はロッカーの荷物をまとめながら三ツ矢さんに訊いた。
「何も変わらんよ」と三ツ矢さんは答えた。「この工場は私の人生だ」
「人生」
「あぁ、そうだ人生だ。ところでお前はどうする?」
「僕はまだ決めてませんが、一度東京に出てみようと思います」
「そうか、折れるなよ」
「え?」
「ココロ、折れるなよ」
「はい」
「俺はもうこの町から離れられんからな、いつまでもこのアメフラシを眺めて生きるさ」
三ツ矢さんは珍しく笑った。とても晴れやかに。
・
カフェの窓に水滴が張り付いた。