「伊藤さん、ダメだ。意味わかんない。なんなのあの人」
飯塚が人の悪口を言うことなんて滅多にないから、僕は驚いた。驚いたけど、まあそりゃそうかとも思った。たぶん、優しい飯塚は、伊藤さんに対しても優しくあろうと努力していた。我慢していた。
「昨日さ、チャットで送別会のこと流したじゃん。そしたら、マジですぐに伊藤さんから欠席の連絡が来て、マジで一瞬でだよ。なんかさ、殴られた気分だったわ」
「うわ、それはきついね。なんて言ってたの?」
「『欠席します』って」
「え?それだけ?」
「うん、それだけ」
「ほんとに?やばくない?」
「で、『残念ですけど、了解です!』って送ったら、『よろしくお願いします』って」
「それだけ?」
「それだけ」
飯塚は畳んだ制服をリュックに入れると、手を止めて言った。
「もう無理なんだけど。なにあれ?プライドのせいなの?なんであんなにも打ち解けようとしないわけ?別に飲み会に来いって言ってるわけじゃないじゃん。少し気を遣えばいいだけの話じゃん。『ちょっと予定があって』とか『みんなで楽しんで』とかさ、いくらでもあるでしょ。なんでそれをしようとしないわけ?もうウザいんだけど」
飯塚がこんなにもイライラしているのを見るのは初めてだった。きっと相当にくらったんだなと思った。
「たしかに、そうだよね。ちょっと無神経すぎるよね」
それでも僕は、伊藤さんことをあんまり悪くは言えなかった。きっと伊藤さんだって苦労しているんだ。それは飯塚もわかっているはずだった。
自分より年下の学生ばかりの職場で、新人として働かなくてはいけないなんて、想像しただけでも、僕は嫌だ。プライドがとか自尊心がとかいう問題じゃなくて、申し訳なくてつらいだろうと思う。僕も伊藤さんと同じで仕事の覚えが良い方じゃなから、ミスをしたり迷惑を掛けたりしてしまうことの辛さはよくわかる。僕は学生同士の軽いノリで謝ったり、教えてもらったりできるからまだいいけど、伊藤さんの場合そうはいかない。謝るにも、教えてもらうにも、誠実さみたいなものを見せないといけない。そんなに気軽に質問できるものじゃないから、仕事の覚えはますます遅くなってしまう。
もしも、年下の僕たちが伊藤さんのことを完全にナメきっていたら、まだよかったのかも知れない。伊藤さんのミスを気軽にからかって、元気のない伊藤さんをイジることができたら、もっと関係は縮まっていたのかもしれない。でも、そうはなれなかった。
僕も飯塚も、たぶん田中も、伊藤さんのことを「すごいな」と思っていたから。
伊藤さんが真面目で誠実な人だというのはわかりきったことだった。たしかに無神経なところはあるけど、それは逆に僕たちに気を使いすぎているから起こることだったし、仕事ができないということも、軽蔑する対象にはならなかった。伊藤さんより早く皿を洗えても、貝の解凍の優先順位を正しく判断できても、ただそれだけのことだった。伊藤さんは建築士になるためにしっかり勉強して、実際に建築士として働いていた。僕たちが全くわからないことを、伊藤さんはプロとしてやっていたのだ。どんな事情かは知らないけど、回転ずし店でバイトとして働かなくてはいけなくなってからも、休憩中は建築関係の資料を真剣に読み、勉強を続けている。きっといつだって自分の好きな建築の分野に戻れるように準備をしているんだ。そんな人を、軽くみるなんてことは出来なかった。ちょっと尊敬していた。
だからこそ、鬱陶しかった。
飯塚は、送別会の件以降、伊藤さんを避けるようになってしまった。