「はぁ」急かされて立ち上がる。廊下を歩きながら、直哉はさっき私が言いかけた話に時間を戻した。
「たいしたことじゃありません。研修最終日なので……お世話になりました」
「おいおい、辞めるわけじゃあるまいし」直哉が可笑しそうに返す。
「研修までしたんだから、おそらく配属はフロントになるよ。俺は人事権もってないから、断言はできないけど」
エレベーターに乗り込んだ時、私はここ一ヶ月で感じたフロント業務への熱い思いを語った。直哉が数多のお客様とやり取りするシーンからも、多大な影響を受けたと。
「そう思ってくれたのは、素直に嬉しいね。じゃあ丁度よかった。俺をホテルマンとして育ててくれた大切なお客様がいらっしゃる。青木にも紹介するよ」
ロビーまで行くと、チェックインのお客様が数組フロント前にいた。ソファーには高齢の婦人が独りぽつんと座っている。直哉は小声で、「ご主人が去年の暮に亡くなられたんだ」と珍しく寂しそうな表情で教えてくれた。彼は迷わずその婦人へと足を進めた。
「三上様、おかえりなさいませ」一礼し、片膝をつく。直哉を見つめた婦人は、微かに笑ったあと、指で目元を拭った。私も慌てて一礼し、自己紹介する。婦人は「青木優奈さんね。よろしくお願いいたします」と挨拶を返してくれた。
「今年は来るの、やめようと思ったけど……」婦人の言葉に、直哉はただ頷いている。
「主人が、ここの海も、桜も菜の花も好きだったから」
「お部屋、どうなさいますか?いつものお部屋でも、違うお部屋でも結構です」
先ほど見たルームシートには、名前のないシングルの部屋が確かに一つだけあった。今夜は土曜だから埋めようと思えばすぐにシングルは埋まったはずだ。
「そうね、思い出の部屋はやめようと思ったけど、整理しようと決めたの。だからあのお部屋、お願いするわ。あと神田さん、ちょっと相談があって」夫人はそこまで言うと、手持ちのハンドバッグからネックレスらしきものを取り出した。
「青木、ちょっとフロント入ってくれる?」そこで私は川島から呼ばれた。直哉がこちらを向いて頷く。後ろ髪をひかれる思いだったが、私はフロントへ戻った。直哉はしばらく婦人の話を聞いていたが、フロントに寄りカードキーを受け取ると、婦人のバックを持ってエレベーターへと歩いて行った。
夜十一時。夜勤メンバーとの引継ぎを済ませ、就業時間を終えた。同時に、目まぐるしく過ぎた一か月の研修期間も終わった。一日の休みを挟んで、あさってからは三日間常彩ホテル本社での最終研修が待っている。
「優奈ちゃん、お疲れ様。よく頑張ったわね」フロント裏の事務所に入ると、小川が労いの言葉をかけてくれる。
「小川さんには何てお礼を言ったらいいか。右も左もわからなかった私に、我慢強く怒鳴りもしないで……感謝です」緊張から解放されて涙腺も緩んでくる。
「そりゃ私だって、正直イライラもしたわよ。でもホテルでは、仕事の成果を感じてくださるのはお客様だから。優奈ちゃんのホスピタリティーはお客様に通じてた。研修中のあなたに目をつむって育ててあげようというお客様の温かい目が、私の気持ちを落ち着かせてくれた。それに甘えちゃいけないけどね」