「そう、イキナリ思い出せる事ってアバウトになっちゃいますよね」
「私たちは日頃、多くのことを引き出しの中にしまっていると思うんです。その中にはもう二度と取り出すことのない思い出もあるかもしれません。でも過去があって今がある。過去を追想することで、おぼろげだった輪郭がハッキリしてくる。そういう事をこの場所、在で起こしたいんです」
白石さんはグラスを一つずつ丁寧に拭く。グラスの角度を変えまた磨く。まるで曇り空を晴らしていくように。
「あまりにも多くを忘れていることに気付きませんか」
「確かに。でも忘れる事が悪いとは限らないよ」
「そうですね。でももっと、忘れた記憶を取り返すことが出来てもいいと思うんです」
過去を追体験することで現在のあなたが在るべき場所にいられる。白石さんの言葉をサトルは口に出してみる。
「在に泊まるゲストの方々は、記録を残して帰られます。とは言え、たいていの人がここに記録を残した事を忘れてしまいます。わたくしたちは五年、十年と節目の度にお手紙を送らせて頂いております」
「サトルさんも、今日ここに来た事、今の自分を記録にしてもいいんじゃないですか」と白石さんが言う。いつの間にか、彼女はグラスを全て拭き終えている。
朝の気配を感じて目を覚ますと、カーテンの隙間から陽光が漏れていた。ボーっとする頭でゆっくりと起き上がりダイニングへ向かう。既に温かい食事が運ばれてきていた。
「おはよう」節子は椅子へ腰かけ、新聞に目を通している。
サトルは、おはようと返すと洗面台へ行き顔を洗う。昨夜はあれから、一人ホテルの外を散歩した。月が満ちていて、無数の星の煌めきが辺りを照らしていた。足並と心拍が重なりリズムを打つ。サトルは自らの心が凪のように穏やかになっていくのを感じた。
立ち止まり大きく伸びをすると、空気がからだの奥まで浸透していくようだった。脳内はリラックスしていて、空っぽなのに満たされている不思議な感覚に包まれていた。
ピピピっと携帯が鳴る。白石さんに言われたのに電源を切るのを忘れていた。
美里さんからのメッセージだ。至急、地球は働き続けていますよ。
ふと思い立ち、写真のフォルダを開く。数年分のデータが羅列される。仕事仲間との飲み会、実家の庭、友人の結婚式。一度も見返した事なんてなかったなとサトルは月に呟く。
スクランブルエッグとサラダを交互に食べ、ミルク多めのカフェオレで流し込む。ようやく血が巡り身体が起動してきた頃、先に食事を終えていた節子が口を開いた。
「爺ちゃんとは色んなところへ行ったけどね。ここは特別やった」
「当時はAR技術も開発されたばかりで珍しくてね。えらい高いし、予約は抽選やったもんねえ。当たった時は当たってしもたって爺ちゃんが逆に困ってたのを覚えとるよ。宿泊費をどうにか捻出してね、ふたりとも隠居の身やったから、せっかくやし行きましょうかなんて言うたんよ」
サトルは節子の話に頷きながら続きを待つ。
「洗練された造形でかつ細部までこだわっとる、なんて素晴らしいホテルなんやって思ったねえ。今回久しぶりに来たけど当時からほとんど変わっとらんし、むしろ場に馴染んだというんかね。派手なリゾートっていう場所もそれはそれでいいんやけど、そこにない魅力が詰まっとるね」